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11月7日(木) 立冬 旧暦10月7日
藤袴。 神代水生植物園にて、すこし前に。 倒れ伏すさまが、なんとも蕭条たる感じがある。 秋草らしい色と風情があり、好きな花である。 今日から冬。 申し分のない(?)寒さとなった。 わたしは冬物のコートを取り出して羽織った。 擦れ違う人たちはの様子はさまざまである。 まだ、コートなしの人もいれば、薄手のコートの人もいる。 そうかと思えば、重装備の冬人もいる。 手袋ははめていないので、両手をポケットにつっこんであるく。 (手袋をさがしておかねば……)と歩きながら思う。 昨日11月6日は、鈴木花蓑の忌日であるとともに、石川桂郎(1909-1975)の忌日でもあった。 冬日に見る円く小さく白き母を 『竹取』(昭和三十二年) 母親のキヨも、桂郎が入院中の昭和三十一年の十月に肺結核で入院していた。見舞いへ行くにも行けず、悶々として、見舞いが叶ったのは半年後になった。そこで見た母親は「円く小さく白き」姿だった。年を取り、また結核のために小さく白くなった母への想いはいかばかりであったろう。ところで、桂郎はこの句の季語に「冬日」を当てている。実際に見舞ったのは春であるが、桂郎にとって「円く小さく白き母」への日差しは、冬でなければならなかった。 大根引く音の不思議に時すごす 『竹取』(昭和三十六年) 桂郎の家でも畑を借りて野菜を作っていたのだろう。この句は桂郎が大根を引かないと成り立たないように思う。桂郎は生粋の都会っ子である。おそらく初めて大根を引き、その音にはっとしたのだ。一体どんな音だったのだろう。地中から抜かれた「音の不思議」にしばらく佇んだ。この「音の不思議」には、桂郎の命の不思議への驚きが含まれている。命への関心がないと「大根引く音」は聞こえてこない。桂郎の細やかな感覚が捉えた世界と言える。 滝の中逆のぼる水のありにけり 『高蘆』(昭和四十五年) この句は岐阜県の養老公園の養老寺境内に句碑として建っている。岐阜には「風土」の支部もあり、桂郎は何度も「養老の滝」を訪れている。そこでついにこの句を得たのである。私を、私の身辺を詠み続けている桂郎が、ひたすら滝という自然だけを見つめて句に成した。現実には滝に「逆のぼる水」はないが、桂郎の心の眼には、はっきりと見えたのである。滝そのものの命というものに迫った句と言える。 巻末の南うみをさんによる解説のタイトルは「手前の面のある俳句」である。 今年の12月で石川桂郎を師系とする俳誌「風土」(南うみを主宰)は、創刊65周年を迎えられる。 この11月13日には、京都にてお祝いの会を予定されている。 すばらしい柚子の稔り。
by fragie777
| 2024-11-07 18:40
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