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11月6日(水) 旧暦10月6日
秋明菊(しゅうめいぎく) 秋日濃い中に咲いていた。 今日は鈴木花蓑(1881-1942)の忌日である。 日原傳著『高野素十の一句』より、今日の日付のものより。 花蓑(はなみの)忌(き)一人修(しゅう)してなつかしき 高野素十 『初鴉』所収「ホトトギス」昭和二十一年五月号。 鈴木花蓑は愛知県の半田出身の俳人。大正十年「ホトトギス」初巻頭。忠実な写生に徹し、花蓑時代といわれる一時代を築いた。また、池内たけし等と共に東大俳句会を指導し、秋桜子、素十などを育てた。昭和十七年十一月六日に六十二歳で逝去。代表作に「大いなる春日の翼垂れてあり」「団栗の葎(むぐら)に落ちてくぐる音」。素十は晩年まで花蓑を尊敬していたという。掲句は花蓑に対する率直な追懐を述べた作。「一人修して」に思いが籠る。季語=花蓑忌(秋) 『武蔵野探勝会」と称して、虚子を中心に昭和5年8月から昭和14年1月まで100回にわたって東京とその周辺で行われた吟行会に、花蓑は名古屋から熱心に参加している。素十ももちろん参加しており、ともに吟行をした仲間である。しみじみと懐かしかったことだろう。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯有り。 194頁 二句組 著者の島崎季子(しまざき・きこ)さんは、東京のお生まれ。外資系企業を退社後、俳句に出会い句作開始、とある。「群青」「山河」に所属。 本句集は第1句集で、横澤放川さんが帯文を寄せている。 このわたこのこうたかたのひと日了ふ モダニスティックな現代感覚とかすかな孤寥感とがこの作者の想像力の内部ではこをろこをろと渦巻いている(横澤放川) 句集名となった「封蠟」は、手紙の封緘などに使われるもので着色した松脂などからなるもの。手紙を書くことの少なくなった現在ではあまり見かけないが、貴族社会を題材にしたヨーロッパ映画などをみていると封蠟をする場面などがよくある。個人的にはいいなあと思うが、現実にはやったことがない。一度はやってみたい「封蠟」である。 本句集のカバーと帯の裏側の右端にそして表紙の一部には、封蠟が押されている。(印刷ではあるが) 著者の島崎季子さんのはからいである。 本句集の担当は文己さん。好きな句は、 冴えかへる手のひらほどの白磁壺 武蔵野を洗ひあげたり夏の雨 波よ波よ哀しみの檸檬かじる 耳鳴りの夕べ花野にまぎれたる 神楽坂この新豆腐いかにせむ 葉桜やひとつ外して鍵の束 この赫く渇いた星の蝸牛 冴えかへる手のひらほどの白磁壺 白磁の壺である。白磁とは陶器ではなく磁器の総称をいうらしいが、この手のひらのうえの白磁は、きっともしかして李朝白磁のもの、いやそんなことはないか。そんな想像も楽しい小さな白磁の壺。美しい凜とした輝きを放っているのだろう。この句の季語は「冴えかへる」であるが、辺りを支配する冴え冴えとした寒気がてのひらの上の小さな白磁から始まっててのひらをとおり作者の身体に沁みわたる、そのようにこの冴え返るの冷気は白磁の壺からはじまって作者の身体をとおり白磁の壺に集約されていくのである。小さな白磁の壺が支配するその寒気を、作者は全身で感じとっているのである。 耳鳴りの夕べ花野にまぎれたる 花野は秋草が咲き乱れていてもどこか寂しさを感じるところである。ましてや、夕暮れの花野はいっそう寂寥感が増す。そんな花野に耳鳴りがする身体ごとまぎれてみる。夕暮れの花野をさまよいながらも、耳鳴りのする身体感覚からは解放されない。いやいっそうそれを強く感じるのかもしれない。耳鳴りを感じながら花野にまぎれ、いつしか暮れてゆくことも、自身の今のこの時の生を確認するひとつのあり方なのかもしれない。 葉桜やひとつ外して鍵の束 わたしもこの句は好きである。季語の葉桜と、鍵との取合わせがいい。濃い緑の生命力に溢れた葉桜。硬質での鈍い金属の色をはなつ鍵、鍵と鍵がぶつかり合う金属音、「ひとつ外して」という措辞に人間の指のやわらかさと肉感がみえる。鍵の束より鍵を一つ外してドアーを開けたのだろう、その背後に葉桜の濃密な色と動きがみえてくる。多くを語らずシンプルに表現して、季感とものの物質感を際立たせた。 春愁や卵の殻のうすみどり この句はわたしの好きな句である。「春愁」と「卵の殻のうすみどり」とはなんの関係もないようにみえる。あえて関連づけて理由づけは不用とおもわせるところもある。しかし、この「うすみどり」がなんとも、やや奇妙な感じ。春愁のただなかにいる作者には、「うすみどり」に見えたのか、いや、実際「うすみどり色」をしていたのかもしれない。卵の殻というもの、卵本体ではなく、その殻がうすみどりであるという思わぬ気づき、この「うすみどり」が読み手の脳裡にいつまでも残る。卵からは通常引き出されない色だ。しかし、そういう色だったのだ。そして作者は「春愁」なのである。この句、初めは春愁と卵の殻はなんの関係性もないようにおもえたのだが、じいっとこの句をみていると、卵の殻の「うすみどりいろ」は、まさに春愁と響きあっているように思えてくる。いや「うすみどり」が侮れないのだ。 梟鳴く夜の基督のふくらはぎ 著者の島崎季子さんが自選にあげておられる一句だ。面白い一句である。基督が登場する。しかも「ふくらはぎ」を見せて。わたしは基督のことをほぼ毎日のように思う人間ではあるが、正直いって基督の「ふくらばぎ」を思ったことはない。これまで、いろんな名画での基督を見てきたが、ふくらはぎに注目したことはなかった。意表をつかれた。ふくらはぎは基督にだってある。梟の鳴く夜に、基督のふくらはぎを思うのか。梟と基督のふくらはぎの距離感がおもしろい。作者の深層をたどればあるいはその脈路はあるのかもしれないが、それを詮索する必要なない。この句、ほとんどが漢字表記であるなかで、下5の「ふくらはぎ」のみがひらがな表記であることによって、基督の「ふくらはぎ」がなまめかしくややエロティックに浮かんでくるのが面白い。修辞の巧みさゆえであると思う。基督のふくらはぎがこのように呼び起こされるのは、金輪際ないんじゃないだろうか。「梟」と「ふくらはぎ」の「ふ」も響きあっている。 校正スタッフの幸香さんは、「〈拾ひ来し仔猫聖書の重さほど〉に特に惹かれました。」 この句集の装釘はほぼ自装である。 装釘案をもとに、島崎季子さんの綿密なご希望を反映させたものである。 封蠟の文字の一部が金箔押しをされているという凝ったもの。 帯の端に封蠟がおかれている。 見返し。 表紙の一部にも、封蠟が。 扉。 全体シンプルであるが、細部に凝った意匠が配されている。 封蠟も薔薇もくれなゐ濃かりけり 句集の掉尾におかれた一句であり、この句集にささげられた一句でもある。 上梓後のお気持ちをうかがった。 ◆メールより おかげ様で色々な方から感想を頂き 「特に好きな句」の鑑賞も。夫々の方が夫々の句に共感されており正に「詠み手と読み手によって句が完成する」のだと実感します。 ◆所感 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? 透明感の際立つ句集が誕生した事の嬉しさ、同時に、作者の手を離れ私を知らない人にも読まれるという事に身が引締まります。 (2)初めての句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい 。 これまで詠み留めた句の数々を「春夏秋冬」の季感に託せたのでは。 私の句は、時として感覚的と言われることも。ただ、それらの元となる素材は、実際に見たり、触れたり、感じたり、に由来。その時の瞬時の感じ方、切り取り方、に依る現実的俳句と思う。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 無意識に封印している心の内を解き、自由に囚われずに、距離感のある詩情を表現してゆきたい。 島崎季子さま 第1句集のご上梓、 まことにおめでとうございます。 ふたたびを約して冬の泉かな 島崎季子
by fragie777
| 2024-11-06 18:49
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Comments(3)
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