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11月5日(火) 旧暦10月5日
今朝はあるいて仕事場へ。 その途中に畑の一角に咲いていた菊。 冷ややかな朝にみる黄菊は、はっとするほど美しい。 今日は沢木欣一(1919~2001)の忌日である。 荒川英之著『沢木欣一の百句』より紹介したい。 夜学生教へ桜桃忌に触れず 『地聲』昭和三十三年 明治大学の夜間部で非常勤講師を務めた時期の作である。「桜桃忌」は太宰治(一九〇九│四八)の忌日。 教室の窓明りに誘われて、おびただしい数の蛾や椿かめむし象が網戸に集まって来る。その網の目を通り抜け、小さ虫がノートの上を這ったり、髪や顔にまつわりついたりする。そうした中、勤労の疲れを見せず、学生は夜の講義に聴き入っている。彼ら苦学生に対し、退廃的な生活を送って自らを破滅させた太宰治を語ることに作者は意味を見出せなかったのであろう。夜学生に対する作者の深い理解をうかがわせる作品。 旅人に涅槃会の雨一雫 『赤富士』昭和四十四年 「二月日記抄」(「風」昭44・4)によれば、十五日、山口大学に転任する飴山実の送別同人句会に出席するため、浜松市へ赴いた。 季語の「涅槃会」は釈迦入滅の日(旧暦二月十五日)に営まれる法会で、「二月の別れ」ともいう。「涅槃会の雨」を旅立つ飴山へのはなむけとしたのである。「雨一雫」という明るく、静謐な春雨の趣が、涅槃絵を意識した作者の、ひいては送別に参集した人々のつつましい心気に響いてゆく。 革命ヲ期スと刻せり山笑ふ 『綾子の手』平成八年 「四高階段教室、机の落書より 四句」の前書を付す四句中の一句。三月十日、明治村(愛知県犬山市)を訪れた。ここに四高の階段教室が移築されている。机上の落書に懐かしさを覚えた欣一は、「革命ヲ期ス」という刻字に目を留めた。それは、四高生の剛健や情熱といった気風を物語っている。四高時代の欣一は、人間探求派に追随して花鳥諷詠に抗した。「革命」の二文字は、文学上のものとして欣一に受け止められたのではなかろうか。季語「山笑ふ」が、激動期の青春の血潮をほほえましく振り返る老境を感じさせる。 荒木英之さんによる巻末の解説の最後には、沢木欣一の言葉が掲げられている。 戦後五十年間の日本の平和、結構なことである。しかし世界では戦争の連続、冷戦も戦争のうちに入る。朝鮮戦争・ベトナム戦争・アフガニスタン・中東・湾岸戦争など。人類は戦争する動物か。東西あらゆる戦争は正義そして聖戦の名において行われて来た。そして最も悲惨な目に会うのはいつも弱い人・底辺の人間である。 上記の文章は1995年の俳誌「風」に掲載されたものである。すでに、それより30年近く経っている。 時代はさらにさらに険しさをましていることを思う。 「革命ヺ期ス」の句をみて、私も学生時代に、ある教室の机に書かれた落書きを思い出した。(一度このブログで書いたことがあるかもしれない、、、) 大学一年だったろうか、教室のたまたま坐ったところの机の上に、何か文字が彫られている。つくづくと見ると、 与謝野晶子の有名な短歌だった。 柔肌の熱き血潮に触れもみで悲しからずや道を説く君 とあり、詞書きが添えられていた。 「革マル派諸君へ」と。 わたしは思わず笑ってしまった。。 そのころのわたしのいた学部は、革マル派に支配されていたのだった。 ストライキがつづくなかで授業は休講がおおく、時に革マル派がやってきて、クラス討論ということになった。 (果たして革マル派の諸君はこの落書きを読んだのだろうか……) この時以来、与謝野晶子のこの短歌は、わたしにとっては革マル派諸君を抜きにしては考えられないものとなってしまったのである。 今日は声が涸れるくらい、本文と索引の読み合わせをスタッフに手伝ってもらいながらやった。 勝利まではまだまだ遠い。。。。 今朝はたくさんの尾長(オナガ)が飛んでいた。
by fragie777
| 2024-11-05 19:09
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