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10月23日(水) 霜降 旧暦9月21日
蕎麦の花。 昨日、ある詩人の方に出したメールに、 としたためた。 おやつはできるだけ控え、炭水化物は取らないように心がけているのであるが、どうにも減量できずといったところ。 体重を減らすことに難渋しているボクサーの気持ちが小さじ一杯分くらいはわかるような気がする。 そんなこと言ったって、おまえはボクサーのようにはげしく戦うわけじゃないだろうって。 いいえっ! 日々の戦いに、もはや、ボロボロの一歩手前というべきか。。。 さて、新刊紹介をします。 四六判ハードカバー装帯有り 178頁 二句組 俳人・福神規子(ふくじん・のりこ)(1951~)の第4句集となる。福神規子さんは、「ホトトギス」、「若葉」「惜春」に学び、「惜春」終刊後、「雛」創刊共同代表となる。髙田風人子逝去後、「雛」主宰に就任。俳人協会評議委員、日本文藝家協会会員。本句集は『人は旅人』につぐ第4句集であり、平成26年(2014)から令和4年(2022)までの作品を収録してある。 第三句集『人は旅人』を編んでから二年後に父が、その二年後に師が、その二年後に夫が亡くなった。今までも大切な人を喪ってきたが、この三人の続けざまの死から、命の儚さを思い知らされた。 と「あとがき」に書かれているように、本句集は喪失の思いをふかく宿しつつ、晩年にさしかかった作者の心情が惻々と迫ってくる句集である。 遠くより近くの春の闇深し 「春の闇」という季題を詠んだ一句である。「春の闇」に遠近をもたせたところが、発見かもしれない。しんしんと作者にせまる春の闇がある。その春の闇は、月の光をうしなった闇であっても、春という季節がもたらす華やかさをひめている闇でもある。衰退の兆しではなく、生成への命の躍動をひめた闇でもある。その闇の手触りを作者はしかと身近に感じたのか。「深し」という措辞に、やや湿り気をおびた春の闇に感応する作者の身体を感じる。 わがために使ふ一日クロッカス 結社の主宰として日々多忙でおられる作者である。また、主婦として家のことのきりもりもあり、自身のための時間などもちえない毎日だ。そんな毎日であってもやっと自分のために費やす一日を見出したのだ。この句はなんとしても「クロッカス」の季語がいい。足元に咲く小さな花である。ほっとひと息ついたとき、庭のかたずみに咲いているクロッカスに目がとまったのか。自身のためにつかうささやかな時間、ささやかであってもとても大切な時間、その思いをクロッカスが肯っている。 露草の藍子規あらば子規ならば 子規への思いを「露草」にたくして詠んだ一句。「子規あらば子規ならば」という措辞に、俳句の原点に立ち戻って自身の俳人としてのありようを問うてみたい、そんな姿がみえてくる一句だ。「露草」の咲く季節に子規は死んだ。「露草」の露は子規の命のはかなさをも思い起こさせるが、「露草の藍」の「藍」の言葉の響きの強さと色の力強さが、子規の不屈な精神を感じさせる一句となった。子規は死してもその思いは死なず、というところか。 男雛より大人びたまふ女雛かな お内裏の雛さまを詠んだ一句。これはわかる一句だ。作者がたまたま目にした内裏雛がそんな風にみえたのかもしれない。無垢の気品をみせる男雛にたいして、世の哀しみを感じ取ったかのような翳りのある女雛か、あるいは目元がやけに艶っぽいとか、女雛の表情になにかを感じとったのだろう。こんな風にいろいろと推測してみるのも面白いが、これはわたしのような下世話の人間の安っぽい推測であって、この一句の「大人びたまふ」という措辞からは、上品なお姉さまぶったお顔だちの女雛、くらいにとどめておいたほうがよろしいかもしれない。思うに、この逆は、つまり男雛の方が大人びているという風なことば、まずあり得ないような気がするのだけれど、どうだろう。 鶏頭を去るきつかけの見つからず 面白い一句である。「鶏頭」という花、あるいは季語は、俳人にとって格別なものなのかもしれない。鶏頭をみれば、子規の詠んだ「鶏頭の十四五本もありぬべし」や細見綾子の「鶏頭を三尺離れもの思ふ」などがすぐに口をついて出て来るだろう。そして、多くの俳人が子規を思いながら「鶏頭」を詠んでいる。作者にとっても、子規はかくべつの存在であるようだ。鶏頭という花につよく引かれる作者でもあるか。子規を思いつつ、あるいは鶏頭という複雑なかたちの存在感のある花の前にたち、時間が経つことを忘れる。いつまでも見つめていたい花、そんな思いを「去るきつかけの見つからず」と詠んだところに鶏頭への、ひいては俳句へのつよい執着を思う。 水仙の丈をすとんと生けにけり 好きな一句である。「水仙」を生けたことのみを詠んだ一句だ。しかし、「丈をすとんと」という発見によって、水仙に命がかよった。まっすぐな三十センチのほどのすっきりとした水仙の丈がみえてくると同時に、「丈をすとんと」で、水仙の重さもみえてくる。こんな風に描写できる花は水仙をおいてほかにはないと思う。すとんと生けられた水仙は、一瞬にしてその場の空気を支配してしまっただろう。粛然として水仙は美しい。生ける側の人間の勢いのようなものも見えてくる一句だ。 浦賀に来てゐます桜が咲きました ほかに、 秋涼し人の見ぬ方見てをりて 稿継ぐは身を削ぐごとし沙羅の花 秋冷やひとは横顔より老いて 月涼し船漕ぐやうにチェロを弾き 火の如き雉の隈取久女の忌 本句集の装釘は、和兎さん カバー表紙画は、ご息女で刺繍作家の福神令子さんの作品を、写真家のうちだなおこさんが撮影したものを用いた。 ご息女との共同制作で作られた句集である。 タイトルはツヤ消し金。 布クロスは光沢のあるシルバー。 見返し 扉。 花布のみ赤。 書体は、雰囲気のあるものを使用。 カバーを広げてみる。 刺繍の作品はたいへん凝ったものである。 「火の匂い」が立ち上がってくるような。。。 少しでも作品の質感と雰囲気を感じとっていただきたく。 雪降るや家ぬち深く火のにほひ 句集名は「雪降るや家ぬち深く火のにほひ」の一句から「火のにほひ」とした。。 その間所属していた結社誌「惜春」の終刊、「雛」の創刊、「若葉」の終刊と私を取り巻く環境は目まぐるしく変化し、「雛」だけが残った。 コロナ禍を体験し、多くの人を喪う経験をした今、ことさら人生の深奥に潜む未知なるものを静かに見つめ、俳句という詩に紡いでゆきたいと思う。(福神規子/あとがき) 本句集の上梓後のお気持ちをうかがった。 〇出来上がった句集を手にとったときのお気持ちは? 今までの句集は当然自分の句集だとの認識に包まれましたが、この第四句集は自分の句集と言うより、どこか客観的に装画と題名と帯とを眺めながら無音に包まれました。私のまわりを無音が取り巻き、私はガラスのバリアの中で不思議な「一人」の感慨に包まれました。淋しいというのではなく、一人の静かさが心地よく、現世を離れてぼうっとしてしまいました。 新書はいつもクッキーの香りがすると思うのですが、『火のにほひ』は新書の香りとほのかな火の匂いが混ざったような香りで、現実離れした世界の中でしばし感興を噛み締めました。「火のにほひ」の題名に合わせて布を焦がし、アート刺繍を制作してくれた娘との共同作業も幸せな時間でした。娘も装画から火の匂いを感じ取って欲しいとFacebookに書いておりました。 〇この句集にこめた思いをお聞かせくださいませ。 あとがきにも書きましたが、大切な人々との別れを詠んだ作品を一書にまとめるとで自分の心に、一端ピリオドを打って、次に歩み出さねば…という思いがありました。 読み返してみると、鎮魂の気持ちと共に私の心からは悲しみが溢れだして年齢以上に老いている(実年齢も老いているのですが・・・)と実感しました。 作品にはその人の背景が浮かび上がって来るものだと思いました。そして俳句に折々の心を投影させることで私は慰謝を与えられたのだと感謝の思いです。 〇句集ご上梓後のこれからのヴィジョンをお聞かせくださいませ。 人生は長いのか短いのか分かりませんが、その人生に寄り添う形で俳句があることは人生を二倍味わえる、豊かにしてくれると思います。 もし人生の行く末が分かったら、つまらないでしょう。未知だからこそ、たとえ方向違いの歩みであっても、人は励み、人は人を愛しく思い、潤いある日々を過ごすべく五感を育み叡知を養い、高みを目指すのだと思います。 今後私の回りに一人でも多くの「俳句好き」人間が増えますよう、伝導してゆきたいと思います。 俳句は作るのではなく、人生の軌跡そのもの、これからも人生の妙味を掬い取って、紡いでゆきたいです。 ひとつひとつ丁寧にお応えくださった福神規子さんである。 福神規子氏。(ご来社のときに) お父さま、師・髙田風人子、ご夫君と大切なひとをうしなった福神規子さんであるが、俳句に向き合うことで気丈に乗り越えてこられたのである。 とは言へど淋しくなれば落葉蹴り 福神規子
by fragie777
| 2024-10-23 18:44
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Comments(2)
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