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10月17日(木) 旧暦9月15日
蝿。 出かけようとおもってふと横をみると家のフェンスの上にいた。 じいっと動かない。 蝿だなあって、つくづくと。。 その横にも小さなものがいる。 こっちは蜘蛛だ、きっと。 じいっと見たらそさくさと行ってしまった。 わたしは自転車にまたがって行き先を目指した。 今日は篠原梵の忌日である。 岡田一実著『篠原梵の百句』より紹介したい。1975(昭和50)年の今日亡くなった。享年65。 仰臥する左眼に満月右眼にすこし 篠原 梵 『年々去来の花』 上りたての低い満月であろう。仰向けに寝たまま、それを見る。両眼で見たときは掲句のように見えないのではなかろうか。つまり、片眼ずつ閉じて、それぞれの見え方を確認しているのだ。 脳が奥行きを認識できるのは左眼で見たものと右眼で見たものが全く同じではないからだ。そのずれを脳が処理することで、奥行きの感覚が生まれる。一般的な人間は眼が一個一個別の物体であることを忘れてしまいがちだ。だが、それをいちいち確認する奇妙な作中主体を描くのが、世の不思議を執着によって新たに発見する、梵らしいユーモアであろう。 今日は満月である。 で、満月を詠んだ句をえらんでみた。 すこし前になるが、8月17日付けの東京新聞の「俳句の窓から」に相子智恵さんが、鈴木しげを句集『普段』をとりあげて評している。宇多喜代子句集『雨の日』(角川書店)とともに。タイトルは「当たり前に詠む」抜粋して紹介したい。 宇多喜代子句集『雨の日』については「その最新句集は、透明感が印象的である。」と記し、「〈桜どき足もとにまでものの影〉〈透明な一品をもて夏の膳〉〈一身の果ての爪切る寒夜かな〉〈猫の子のあてあるように動きだす〉といった句の、何かの影や、透明な一品、爪、猫の子の見えない「あて」は、日常、見えているものの奥にある、見えない「気」のようなものを掴んでいく。(略)〈サマーセーター前後不明を着こなしぬ〉のような俳味も軽やかだが、近年足を悪くし、〈曳く杖を分身として五月の野〉のような句も見える。しかし新緑の5月の野は、明るい生命力の塊。杖を分身として野の命に触れる。宇多の心は杖にも野にも宿るのだ。」 82歳の鈴木しげをの第6句集『普段』(ふらんす堂)は穏やかでユーモアがあり、こちらも「当たり前に詠む」ことの深さが覗く。〈手の窪にのせて糸底涼新た〉の茶碗の底に感じる穏やかな秋の涼しさ。〈膝打つてさて策もなし秋扇〉〈武蔵野のすつ飛び雲や唐辛子〉の意表を突く楽しさ。(略)は波郷は俳句の散文化を憂い、切れ字を生かす「韻文精神」を説いたが、鈴木もまたそれを受け継いでいると思うのは次のような句である。〈ずんと冷ゆ雨の清瀬の野紺菊〉。波郷が療養した清瀬での句。美しさを超えた凄みがある。「波郷先生逝きて四十五年」と前書きのある〈綿虫といひ茫々といふべかり〉は、波郷の〈綿虫やそこは屍の出でゆく門〉へのオマージュ。こちらも骨太な一句だ。 老いて濁らず、倦まず、芯をもちながら軽やかであることは、当たり前ではない。「当たり前に詠める」とは、まさに「有難きこと」なのだ。 宅配便の「大地を守る会」で、真菰筍を購入にしたのだが、一週間ほど冷蔵庫に寝かせてある。 今日はいよいよ食べようかと思っている。 で、どうすればいいのかなあ、 冷蔵庫には鶏のもも肉がある。 それとどうにかして食べようか。。。 いま、味を頭の中で構築(?)してみた。 ううん、そんな感じがいい! うまくいったら、レシピを明日公開しちゃいます。 お楽しみに。 明日そのことに触れていなかったら、 「真菰筍、どうでした?」なんて絶対に聞かないでくださいね。 絶対ですよ! 水引の紅色は、きれいな赤である。
by fragie777
| 2024-10-17 18:31
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