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10月16日(水) 旧暦9月14日
小式部の実。 収拾のつかない夢をみて、慌てて目が覚めた。 このなんとも思うようにいかず慌てるばかりの夢って、いったい何を意味するのだろうか。 しばし、考えた。 だが、、 思うようにいかないと言っても、お昼のパンがどうしても食べられずウロウロとしたりというレベルの夢ではあるが。。。 昨日付の讀賣新聞の枝折に石嶌岳著『皆吉爽雨の百句』が紹介されていた。 高浜虚子の写生の姿勢を継承した皆吉爽雨(1902~83年」の100句を収める。力強く格調高い句が並ぶ。〈天懸る雪崩の跡や永平寺〉 新刊紹介をしたい。 四六判仮フランス装カバー装帯懸け 202頁 2句組 著者の石山ヨシエ(いしやま・よしえ)さんは、1948年鳥取県生まれ、鳥取市在住。俳誌「沖」を経て1987年「門」創刊と共に入会。1991年「門」新人賞、1994年「門」同人賞、2021年鳥取市文化賞を受賞されている。第1句集『鳥雫』(1983年)、第2句集『浅緋』(2011年)自註句集『石山ヨシエ句集』(2019年)を上梓されており、この度の句集『砂柱』は第3句集となる。俳人協会会員。「門」同人。本句集に鳥居真里子「門」主宰が、帯に言葉を寄せられている。 寒暁の光砂柱に及びけり 砂丘という静寂が生む沈黙の鼓動。 移ろう季節のなか、幽玄と神秘が織り成す風土に寄り添う作者がいる。 句集『砂柱』全編に広がるのは紛れもなく自身の生きるという沈黙の鼓動である。 鳥居真里子主宰の帯文を紹介した。 引用句は、この句集のタイトルとなった一句である。 「砂柱」とは、「 砂漠で砂が龍巻(たつまき)に巻き上げられて柱のようになる現象。」であるということだが、わたしはまだ見たことがない。しかし、想像はある程度できる。砂は柱となっても脆くていつかは崩れおちるものである、そんな崩落の兆しをうちにかかえながら崩れ去り崩れ去りするものの足元に屹立する、そこに達する寒暁の光も一瞬の光芒のうちに消え去っていく。砂丘の生成と消滅のなかに作者自身の生をも照らし出す一句である。 この句集の担当はPさん。 雪眼鏡はづしこの世の白さ言ふ 大寒の身を離れざる静電気 卵巣を神へ返しぬみどりの夜 水脈のごとしばし春睡引きずりぬ 巻尺のもどる勢ひ初仕事 雉翔ちし羽音しばらくそこにあり 梟に火照りし耳をあづけたり 刃を入るる初筍のしぶきかな 卵巣を神へ返しぬみどりの夜 句集を拝読すると、作者は、入院をして開腹手術を受けられている。掲句はその一連の俳句がならぶ一句である。卵巣を切除されたのか。それは大層なつらいことである。この句の前には、〈開腹の麻酔より覚む涼しさよ〉という句がおかれており、作者の心は落ち着いてある意味かろやかで悲壮感や暗さがない。掲句もまた、卵巣を摘出されたことを「神へ返しぬ」ときっぱりと爽やかに詠んでいる。思うにきっとつらくて深刻な時間をすごされもしただろう。しかし、その体験を作品化するとき、自身の身におこった一大事を「涼しさ」また「みどり夜」の季語を配することによって、浄化し救済しているのだ。いや、季節をすくいとる心によって救われたというべきか。ほかに〈病躯とふ夏痩にしてはばからず〉がありしたたかな作者像がみえる。 水脈のごとしばし春睡引きずりぬ 「春眠」を詠んだ一句だ。「水脈のごと」の喩が感覚的にわかる一句だ。春は眠たい季節。どう眠たいかって心地よい眠たさとでもいうべきか。とろりとした眠たさ。そう一脈の水のながれのように、途絶えることなく身体の芯を眠たさが気持ち良くつらぬく。冬の寒さから解放された身体もゆるみはじめ、大気も水蒸気をたっぷりとふくみ、やさしく人を眠気にさそう。人間の身体を流れる水と自然界の水分とが交響しあうように。「春睡」は、「春眠」の傍題。この句を読んだとき、なにゆえ「春眠」でなく「春睡」であるのかと思った。作者もきっと、「春眠」と配することも考えたにちがいないと思う。しかし、「春睡」とした。「春眠引きずりぬ」では、なんとも眠りが重たくなりすぎるのではないか。「春睡」という軽やかな響きによってこと、「水脈のごとしばし」という措辞が効果的になるのではないかと思ったのだった。 巻尺のもどる勢ひ初仕事 面白い一句だ。初仕事に一心にむかうというか、いや、飛びつくようにして仕事をはじめる姿がみえてくる。どんだけのがむしゃらかというと、「巻き尺のもどる勢ひ」であるという。なんとも具体的でわかりやすいが、なかなかユニークな喩えである。そこにつきる。この仕事への取り組み方、嫌いじゃない。有無をいうまもなく仕事にからめとられていく人間のあるいは自身の姿を、やや苦笑いをし呆れながらも肯定をしているのだ。初仕事という一年のはじめの大事な仕事であるからこそ、このくらいの勢いが欲しい、わが身にも。とわたしは思ったのだった。 白梅へぴたりと寄せて消防車 これはわたしが面白いと思った一句である。景色がとてもシンプルである。どういう状況かはわからないが、火事場であるか、そうではない現場であるか、そこまで想像する一歩手間のところで、思考は止まってしまった。物と物との対比があまりにもあざやかで対照的なこと。梅の花のやわらかさと清廉さ、それに対して消防車の派手な赤とその金属的な物体感と大きさ、その物体がぴたりと梅の花に寄り添うようにおかれている。この「寄り添うように」というのは、わたしの気持ちのはいった謂でもある。この句「ぴたりと寄せて」が面白いのかもしれない。でかい図体の派手な消防車がぴたりと寄ってきても、梅の花はその白さをそこねることなく、端然とやや消防車を威圧するかのごとくあるのだ。そんな風におもうと楽しくなってくる。好きな一句である。 煩悩も地髪も乏し着膨れぬ この一句も面白い。作者自身を詠んだものだろう。ユーモラスに自己を対象化してみせた一句だ。煩悩を乏しいというところが、いい。歳を重ねて煩悩をふやしていくのではなく、もっとあってもいいはずなのにあえて「乏しい」と詠むところに俳諧性を思う。お気楽に生きてるのよと居直るのでもなく、やや内省的に自身を返りみてるのだ。そして「地髪も乏し」で、さらに笑ってしまう。悩むことはないけれど髪は確実に薄くなっている、「煩悩」と「地髪」をいっしょくたにして「乏し」って、いったいって思ったのだが、しかし、下五の「着膨れぬ」で、だめ押しの一撃、もうこれ救いようがないわって、いたずらっぽく笑っている作者が見える。したたかに「老い」を詠んだ一句だ。 校正スタッフのみおさんが好きな句は、「〈テレパシーさへぎる一樹雪降れり〉大きくて古い木だと確かに弾かれそうです。」 幸香はさんの好きな句は、〈あまたなる翅を引き寄せ蕎麦の花〉 この第三句集は二〇一一年から二〇二四年前半までの作品の中から、自註句集に纏めた作品を除いた三四八句を収めました。 その間、鈴木鷹夫先生と鈴木節子先生が他界され、心の空洞を埋めることの出来ない時期もありました。またコロナという未曾有の感染症により家に籠る日々が数年続きました。そのような歳月にあって、傍らに俳句があったことでそれなりに平常心を保つことが出来たのではと感じています。その俳句とこれからも向き合い、大自然と対峙することによって生まれてくる感動を如何に描写すべきか、葛藤を重ねながら励んで参りたいと思います。 句集名の「砂柱」は「寒暁の光砂柱に及びけり」から採りましたが、四季の中でも砂柱の現れる厳冬の砂丘がとりわけ好きなことにもよります。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 装釘は、第1句集、第2句集とおなじ君嶋真理子さん。 派手さをつつしんで、上品な仕上がりとなった。 タイトルはツヤ消しの金箔押し。 カバーの用紙は、こまかな粒子が光る砂をおもわせるもの。 表紙は淡いむらさきグレー。 扉。 悼 鈴木節子先生 天上へ桜吹雪のやまざりき 石山ヨシエ 上梓後のお気持ちをうかがった。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? 何か分身と会うような不思議な感じがしました。 とにかく装丁が素敵で、新雪の砂丘のようでもあり鳥のはばたきのようにも感じられてとても気に入っています。 (2)この句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい もう少し作品を推敲して数年後にでも、との思いもありましたが、私の場合、コロナ禍や戦場に関する句もあり、句集にも鮮度があるのではと、今回思いきって上梓しました。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 今後は好きな季語に偏らないように、これまで見落としていた身の回りのモノも詠みたいと思っています。 石山ヨシエさま 鈴木鷹夫先生にご紹介されて、最初にお目にかかったときからもう40年以上の歳月が経っているとは。。。 不思議な気がいたします。 第3句集のご上梓をこころよりお祝い申し上げます。 薄氷(うすごおり)遊びのやうに今日を生き 石山ヨシエ
by fragie777
| 2024-10-16 19:45
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