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10月11日(金) 急重陽 旧暦9月9日
ひさしぶりに良い天気なので、自転車で仙川沿いをとおって仕事場に向かう。 川を覗いたら白鷺と目があった。 軽鴨も元気だ。 数羽ではしゃいでいた。 まもなく渡ってくる鴨たちが加わることになるだろう。 今ごろの季節は水沿いをはしるのは気持ちがいい。 毎朝、音楽をタラタラと聴きながら食事をしたり、ゴミ出しをしたり、歯みがきをしたり、まあ朝の出勤前のノルマをこなすわけだけれど、ふっと(わたしって、蟻? それともキリギリス?)って思った。かのイソップ物語の「蟻とキリギリス」のことである。 で、 やっぱりキリギリスだなって思った。時間があると、テレビをみたり、音楽を聴いたり、本をめくったり、iPhoneをのぞきっぱなしってこともある。つまりは非生産的なものにしか使っていない。ヴァイオリンを弾いていたキリギリスのほうが、まだ創造的である。キリギリスはある意味アーティストだった。わたしは消費するばかり。働き者の蟻にはとうていなれない。リクライニングチェアの上でグテーっとしているのが大好き。 いまにきっと冬の寒さにふるえながら、蟻の家の戸をたたく日がやってくると思う。 そうだ、いまのうちにわたしの回りにいる蟻さんたちと仲良くしておこう。。。。 新刊紹介をしたい。 四六判上製本布クロス装。164頁 2句組 坪井祭星(つぼい・さいせい)さんの4冊目の句集である。坪井祭星さんは、昭和7年(1932)東京生まれ。平成17年(2005)俳誌「春嶺」に入会され、それ以降ずっと俳句を作り続けてこられた。本句集には、「風琴」同人の皆川燈さんが跋文をよせておられる。 「はじめに」と題して、坪井祭星さんが一文を書かれている。その一文をまず紹介しておきたい。 この句集についての経緯を述べておく。私の友人に典雅な女性が居る。その方は多趣味で俳句にも造詣が深い。囲碁の会でお会いするたびに『祭星句集』を作りなさいと言われる。そのうちになどとお茶を濁していたのだが、その方は私の余命を察知したのか、「春嶺」誌に発表した私の過去の句から三百句ほど抽いて下さった。 事ここに至ってはと私も覚悟をきめ『祭星句集』を作ることにした訳である。 また、この句集に花を添えていただこうと私が敬愛する皆川燈さんに寄稿をお願いした。優しい方なのでご丁寧な文章をお寄せ下さった。皆川燈さんは著名な俳句作家、論評家で、私が心の師とする方である。 なかなかユニークな「はじめに」であるが、そのご友人の熱心なおすすめもあってこの度の句集は出来上がったのである。 皆川燈さんは、本句集にふたつの跋をよせてくださった。一つ目は「祭星句集を読む―尽きることなき抒情の水脈」と題して、本句集より前に刊行された 以前の坪井祭星さんの3冊の句集より好きな句を選んで鑑賞をされている。この度の『祭星句集』は、その三冊の句集よりの自選300句であるゆえに、皆川燈さんとして、坪井祭星さんを語るには、この自選から洩れた句についても触れておきたいと思われたのだ。とくに「心惹かれた作品」を懇切に鑑賞し評しておられる。もう一つの跋は、この度の『祭星句集』の俳句について書かれたもの。この二つの跋によって、この句集を手にした読者は坪井祭星という俳人の全体像にふれることができる。 それでは、まず一つ目の跋より、抜粋したい。大幅な抜粋となってしまうことをお許しいただきたい。 まずは「春嶺」に参加する以前の句から引いてみる。 氷り田を月越す山の鳴りやまず 美しき十五夜ゆがむ玻璃戸越し はたと肩打たれて葛の花なりし 雨あらき闇の底なる鳳仙花 氷り田をわたる月と山鳴り、玻璃戸越しのゆがんだ満月、肩に触れてくる葛の花、雨夜の底に浮かび上がる鳳仙花など、氏が俳句に呼び込んだ世界は瑞々しい抒情を湛えて光彩を放っている。 若い日々に目覚めたこんな俳句への心の傾きは、七十代になって再び書きはじめた俳句にも地下水脈のように流れている。 (略) 芭蕉より蕪村が好きで春の土手 ふとこぼれた本音のような一句である。「春の土手」は蕪村の「春風馬堤曲」へのオマージュだろう。朔太郎は『郷愁の詩人 与謝蕪村』の中で、蕪村のポエジーの実体は「時間の遠い彼岸に実在している、彼の魂の故郷に対する『郷愁』」であると語っている。祭星氏の作品の底に流れる抒情の源もまた〈魂の故郷への郷愁〉であるかもしれない。 そしてこの度の『祭星句集』によせた跋。「補遺」とある。 春風裡怒りの如くパンちぎる 思ひきり踏み込む跳躍台の春 なんとも大胆な一巻の開陳ではないか。晩年のイメージをくつがえすかのような怒りや跳躍は、祭星氏の俳句に向き合う心境そのものだろう。 (略) 空蟬 が夜更の机上を動きだす 夕菅や再び村を出奔す こちらは異界との交感の物語である。机上を発った空蝉は、夕菅に見送られてついに村を出奔したのだ。思いは源氏物語の空蟬にまで及んでいく。 句集として再編成された三〇〇句はこんな勝手な読みをものみ込んで響き合い、晩年という懐かしい季節へ私たちを誘ってやまない。 本句集の担当は文己さん。 亡き人のけはひ夕顔ひらくとき 継ぎはぎの家を守りて百日紅 初夢に後ろ姿の人ばかり 去る人も見送る人もちやんちやんこ 有明の月より淡し蕎麦の花 遠き世のごと運動会を見てをりぬ 亡き人のけはひ夕顔ひらくとき この亡き人は「妻逝く」という前書きのある一連の句の一句であるので、亡くなられた奥さまのことであるだろう。この句をふくめた妻への追悼句は真率な悲しみに満ちていて心打たれるものがある。〈すかんぽを放心の手が握りゐし〉〈啼きながら遠ざかりゆくほととぎす〉〈面影を描いては消して水すまし〉4句がおかれていて、掲句は3句目のものである。妻を失った心のさまを詠んでいるのだが、その心を託している季語がどれも効果的だ。「すかんぽ」と「放心」、「遠ざかるもの」と「ほととぎすの声」、「消える面影」と「水すまし」、「夕顔」の季語は作者にとってどれほど妻が美しい存在であったかを語っている。哀惜をものの季語に託するのが巧みであると思う。はからいがなく自然体で詠まれているので、読者のこころに悲しみを呼び起こしながらすんなりと入ってくる。夕顔がひらくとき亡き妻がのけはいを感じるなんて、手放しの妻恋である。 継ぎはぎの家を守りて百日紅 面白い一句だ。「継ぎはぎの家」というあからさまな語彙が、古びてしまって家屋を語っているのだが、古びたという突き放した視線ではなく、「継ぎはぎ」という言い方で家にたいする愛情が感じられる。あちこちを修理しながら作者と共に古くなって行った家に今年も百日紅が変わらずに咲いているのだ。その百日紅もずっと家とともにある木である。「百日紅」という季語の「百日」という語彙が時間の流れを思わせてこの一句に効果的に働いている。 有明の月より淡し蕎麦の花 「蕎麦の花」を詠んだ一句である。真っ白な花が一面に咲く蕎麦の花である。夜になってもその白さはほのぼのとうっすらと白く見える。地面にひろがるように淡々と咲く蕎麦の花の白、夜はしらじらと月をとどめて明け初めていく、蕎麦の花の輪郭も明け方にはうっすらとしてくる、その様を月のかすかな光りよりも淡しと捉えたのだ。それは作者にとって思いも掛けない発見であったかもしれない。一幅の日本画を見るような一句である。 遠き世のごと運動会を見てをりぬ 面白い一句だ。運動会の見方にはいろいろとあるが、「遠き世のごとく」とは、ある意味上手い言い方をしたものである。この気持ち、今のわたしにはわかる。つまりは、すでに運動会にかかわることのない人間として、そして、まだまだその思い出が古びていない人間ではなく、すでに異界の出来事にようになった人間として運動会を見ているのである。しかし、まったくの異界なのではない。あくまで時間的、空間的距離があるけれどかつてはそれを知っておりその関係性は断ち切れてはいないのである。記憶をまさぐれば遠い過去からその運動会は懐かしい顔をみせるかもしれない。しかし、運動会からすこし離れたところに身をおいてその声援を遠く聞きながら、目の前に展開するものは、「遠き世」のものとしてしか作者のこころには呼び起こされないのだ。 わが影の冬木の影を切りすすむ これはわたしが立ち止まった一句である。裸木となったシンプルな影、そして人間の影、その二つの黒い影のみが見えてくる。冬木の前を通る人間の目には、地にするどく伸びている影しか目にはいらない。そしてその影を切るようにして作者の影が横断していくのだ。モノトーンの景がみえてくる。動かない裸木の影、動くするどい人間の影、作者の思いつめた厳しい心情までがみえてくるような一句である。この一句、校正スタッフの幸香さんも惹かれた一句としてあげておられたのだった。 おなじく校正スタッフのみおさんは、〈ふる雪を鏡に理髪刈りすすむ〉が好きです。ということ。 『祭星句集』を作った今、なにか複雑な思いがある。うれしいという気持ちはあまりしない。何か寂しい。私の俳句はこれで終りなのかという思いが消えない。たぶんしばらくは惰性で句を作りつづけるであろうが、それは消えてゆく残り火にすぎない。何事にも終りはあるのだと思い切るしかない。 「はじめに」の冒頭におかれた一文である。 率直な思いを吐露されておられるのであるが、読者の方はすこし驚くかもしれない。 しかし、偽りのない坪井祭星さんのお気持ちなのだ。 本句集の装釘は和兎さん。 坪井さんのお気持ちをかたちにした。 カバーや帯はつけず。布クロスをまとった表紙のみである。 そこに白箔を押したのみ。 白箔がきれいに仕上がるだろうかと心配をしたのだが、きれいだ。 毅然とした清潔感がある。 見返しも緑、ややあわく。 扉。 角背が坪井祭星さんのお人柄を表しているよう。 杖ではないステッキだよキミ秋高し お目にかかったことがない坪井祭星さんでいらっしゃるが、句集を拝読していくと毅然とした佇まいの「孤高のおもざし」を思わせる俳人である。 干からびし蜥蜴のごとく終りたし 坪井祭星
by fragie777
| 2024-10-11 20:42
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