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10月2日(水)水始涸(みずはじめてかるる) 旧暦8月30日
今日はいちばんお気に入りのスニーカーを履いていくことにした。 それがこれ。 スニーカーだけはいろいろと持っている。 なかでもこの黄色が気にいっていて、汚れを消しゴムでおとしながら履いている。 軽くて履き心地もよく、最高! 足元だけだととてもR女にはみえないでしょ。 でも、R女なんだ。。。 新刊紹介をしたい。 四六判仮フランス装カバー掛け 202頁 二句組 俳人石田郷子(いしだ・きょうこ)さんの第4句集である。前句集『草の王』 より9年ぶりの刊行となる。1958年東京生まれの石田郷子さんであるが、いまは埼玉・飯能市名栗(なぐり)の里山に暮らしている。鹿、猪、猿、時には熊も出没するところだ。そんな獣の気配を身近にしながら自然との豊かな呼応の日々を詠んだ句集である。都市生活者となった人間がすでに手放した暮らし振りであっても、詠まれた一句一句は読者のふところにやさしい親しさをもって飛び込んでくる、そのような俳句である。本句集をつらぬくものは、武装していない身体と自然との弾力ある呼応と言ってもいいかもしれない。 大瑠璃のこゑに縛されゆくごとし 板敷に寝ぬればまはり出す銀河 本句集を読んでいくとわれわれが身体の内奥に記憶としてやどすプリミティブなものが、呼び起こされるそのような喚起力を秘めていることに気づかされる。 そののちの日差うるはし牡丹雪 悲しみも春もにはかに来るらしき 冒頭の二句であるが、「そののちの日差うるはし」という作者固有の体験が、読み手自身の体験としてやわらかく降る春の雪とともに甦ってくる。二句目の「悲しみも」の「悲しみ」ももまた春の季節によびおこされる悲しみとして思い出される。「そののちの日差」の措辞が巧みである。 本句集は、頁をひらくごとに読者に微かな驚きをあたえてくれる一集である。 この句集の担当は、Pさん。 好きな句をたくさん選んでいるが、そのうちのいくつかを。 畝高く立ててあり春待つてをり 碧玉の一湖も秋に入りにけり 青葉よりこぼれて雀忙しき 朧より抜けきて座るからだかな 食べて寝て痩せてゆく猫草の秋 つゆけしや夕暮れの声捨てに出て 凍つる夜をみひらきしまま逝きにけり 相逢うてともに芒のやうな髪 葵さん 空のせてゐる家々や水温む 藪漕ぎの陽春の野に出でにけり 闇淡きところ蚊遣火置くところ 秋入日束の間稜線を溢れ 朧より抜けきて座るからだかな 「からだかな」がおもしろい。あえて「からだ」とおくことによって、身体を認識させているのであるが、「からだ」の平仮名表記が、朧をぬけてきたやはらかなやや水分をふくんだ身体をおもわせる。朧という物質ではない大気現象を抜けてきた「からだ」という物体によって「朧」を再認識し、読者にも再認識させるのである。 つゆけしや夕暮れの声捨てに出て 「声捨てに」が面白い。声を捨てるとはどういうことなのか。声を出す、あるいは声を発する、ことなら通常である。しかし、声を捨てるというのである。どういうことか。本句集にはほかにも「声」を詠んだ句がある。〈みそはぎや胸に棲むこゑひとつある〉ここでは、棲むものとしての「声」である。「言葉」にならないその以前の「こえ」なのである。言葉化できない呻き、口から出た音の響き、それはロゴス化されないもの、しかし、作者にとってはぬきさしならないものとしての「こえ」なのである。さらに言えば、鳥獣は言葉をもたないが声は持っている。ここに詠まれた「声」はあるいは生きものに共通する「声」であり、石田郷子という俳人は、その「声」を原点として立つ人間であるのかもしれない。ロゴス以前の肉体が発する音。〈雨に声こぼしゆきたる燕〉。この声も俳人石田郷子にとっては、切実な声として迫ってくるのだ。 死ぬふりの蜘蛛を見てをりあたたかし わたしの好きな一句である。蜘蛛をじいっと観察し写生しているという句ではない。この蜘蛛と作者とはすでに交流(?)があるのである。そうでなければ、「死ぬふりの蜘蛛」という措辞は出てこないだろう。あるいはこの蜘蛛との頻繁な交流はなくても、作者の身近にいる蜘蛛とは日常的に親しいのである。そんな蜘蛛を(あーあ、また死ぬふりなんかして…)と笑いながら見ている。蜘蛛の方は死んだふりをして、なんとか人間が立ち去ってくれないかと願っている。その必死な蜘蛛のありようをそれを笑いながら見ている我。そんな関係を暖かく思ったのだろう。「あたたかし」の季語によって、蜘蛛と作者のみの関係にとどまらず、人と蜘蛛とをおなじようにつつみこむ自然の恩寵としてのあたたかさが広がっていく。 邂逅の君踏むなそこ鹿の糞 これも好きな一句である。石田郷子さんの家に遊びに行くと庭に鹿の糞がころがっている。うかうかすると踏んでしまう。「邂逅の」と上五を漢語表現にして硬い音をおき、中七下五で勢いよく口語的にいい下す。巧みな叙法である。現場がよくみえてくる一句だ。「邂逅の君」という措辞で、久しぶり会った大切な人であることがわかる。お互い「久しぶり!」とか言って近づこうとおもったその矢先の中七下五である。俳句のことばに血脈が通っている一句だ。石田郷子さんにとって、俳句は生活のすみずみまで浸透しており、手垢のつかない弾力ある一句が生まれる。 藪漕ぎの陽春の野に出でにけり ふたたびPさんの好きな一句へ。野趣に富んだ一句だ。この一句はなんといっても「藪漕ぎ」の語彙である。道のない薮のはびこるところをかき分けて進む「藪漕ぎ」。わたしも時に経験するが、都市生活者にとっては、面白くもありやや不安もあり、なにより体力と気力がいる。経験して悪くはない。この語彙によって、山林の薮の間をぬうて懸命に登っていく人間の姿がみえる。「陽春の野に出でにけり」の中七下五で、陽春のあかるさがみなぎる世界がひらける。はたしてPさんは「藪漕ぎ」を経験したことがあるだろうか。 『万の枝』は、『草の王』以後九年間の作品を収めた第四句集である。 新型コロナウイルス感染症の世界的流行を経て、ようやく対面での句会が復活し、「椋」誌もこの秋には創刊二十周年を迎える。私も、この句集を一つの区切りとしたかった。 この句集の作品はすべて椋の句会の場で作ったものである。コロナ禍の長かった自粛期間も、会員同士知恵を合わせてすべての句会を続けて来られたことを誇りに思う。 「あとがき」にある言葉である。 本句集の装釘は、和兎さん。 できるだけシンプルさを心がけた。 あえて帯なしに。 表紙のいろはさわやかなグリーン系。 開きのとてもよい造本である。 この金色の箔押しは、木の実と思ってもらってもいい。 グリーンは、葉。 この木の実、20個ある。 20周年をむかえられる俳誌「椋」の1年ごとの実りの木の実である。 尾で応ふる猫よ十二月の窓よ 凍つるよをみひらきしまま逝きにけり 本句集は、死んだ愛猫の爲に編まれたものでもある。 「こゆきちゃん」は、名栗でくらしはじめたときからずっと、石田郷子さんのかたわらに寄り添っていた猫である。 わたしもよく知っているこゆきちゃんだった。 句集上梓にあたってのご感想をいただいている。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? もっと早くまとめるつもりでしたのに、10年ぶりですので、やっと約束を果たせたという安堵感がありました。装丁の柔らかさにも心が和みました。 (2)この句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい 一緒に俳句を作って来た椋の人たちへの感謝、20年寄り添ってくれた猫への感謝、椋創刊20年という一つの区切りで自身の足取りを振り返り、この先のことを考えるよすがにしたい、そんなところでしょうか。 (3)「椋」が20周年となり、今後の思いがあればお聞かせください。 正直に言えば、次の30周年に向かおうという意気込みはないです。20周年を祝うという思いではなく、椋の運営を支えてくださっているみなさまに、お疲れさま、という気持ちに近いです。私たちにはまだ明日という日がくるでしょうから、今の椋の人たちと共に淡々と俳句を詠んでいきたいとは思います。そうしているうちに何か新しい道筋が見えてくる、そんな気がしています。 石田郷子さま。 句集のご上梓、そして御誌「椋」の20周年、おめでとうございます。 こころよりお祝いを申し上げます。 そして、愛猫の死、 どんなにさびしくなったことか、 俳句のお仲間や名栗の自然がきっと癒やしてくれることでしょう。 お仲間とのさらなるご健吟をお祈りもうしあげております。 北風へ出づ拳なら二つある 石田郷子 ロックな句集である。 名栗の石田郷子さんがすむ「山雀亭」の庭につくられつつある小さな部屋の窓。 書庫になるとか。。
by fragie777
| 2024-10-02 19:56
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