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9月25日(水) 彼岸明け 旧暦8月23日
歩いて仕事場へ。 朝あるくには気持ちのよい日となった。 気づかないで通り過ぎてしまいそうになるほど地味な小さな花である。 が、 よくみるときれいな花である。 こちらは実。 宝石のように耀いている。 うっとりしてしまう。 急に気温がさがったせいか、スタッフのPさんは、ややかぜ気味である。 29日は「田中裕明賞の授賞式」。いまダウンしたら大変である。 葛根湯を飲んでいたが、風邪薬を買って帰る様子である。 帰り支度のPさんに「今日は良く寝てください」って声をかけたところである。 新刊紹介をしたい。 四六判ペーパーバックスタイル 80頁 著者の竹岡準之助(たけおか・じゅんのすけ)さんは、1934年(昭和19)京都生まれ。巻末の略歴によると、早大仏文卒、学生時代に三浦哲郎、佐藤光房らと同人誌「非情」を創刊。64年、あすなろ社を創業、出版に従事、現在に至る。季刊誌「パピヨン」を編集・発行。(1997~2012)著書に『白夜の忌―三浦哲郎と私」『冥土の土産』『黄落の夕景』(いずれも幻戯書房)『深夜TIMES』ⅠⅡⅢ(いずれもあすなろ社)ほか。 ふらんす堂とのご縁は、2013年に歌集『オレンジの甍』、2014年に句集『春岬』を上梓されたことによる。 略歴からもわかるように、出版業をいとなむかたわら文筆業においても精力的に仕事をされてきた方である。また、俳句も短歌もつくられる方である。 数カ月まえに、その竹岡準之助さんのご息女よりご連絡をいただいた。 すでにお父さまの準之助さんは、ホスピスにおられる。 そのお父さまが、散文詩集をつくりたいとのぞんでおられるというのである。 ホスピスにご入院をされていることに驚くと共に、そのような思いでふらんす堂にご連絡をくださったお気持ちにお応えすべく、わたしたちは散文詩集の原稿をお待ちした。 そして、送られてきたのが、メモに書かれた原稿だった。 おどろき茫然としつつ、さっそく担当スタッフのPさんは、原稿をおこすべく打ち込み作業にとりかかったのだった。 そうして出来上がったのが散文詩集『ホスピスにて』である。 この一冊には、目前に迫りつつある死をみつめつつ、時として思い出の中に生き、あるいはさまざまに思いをめぐらす竹岡準之助という人間がいる。 まず「あとがき」を紹介したい。 前著『卆寿だより』を上梓してから、半年が経ち、いま、私はJ病院というホスピスにいる。 毎日、食事も満足にとれず、寝てばかりいる。知友への便りも、欠かせないものは娘に代筆をたのんでいる。新聞もTVも、大リーグのニュースを除いて、ほとんど見ない。視聴を刺激してくれるのは、辛うじて、睡眠中に「見る」、「雑念」や「妄想」の類いだ。 どれも碌でもなく埒もないものばかりだが、時折、気がむいたときに、思いつくまま、娘からもらったメモ帖に、それらを書きつけることになった。病院内でできる気晴らしといえば、仰臥したまま書けるこうした乱筆乱文のメモ書ぐらいだ。 前著『卆寿だより』のあとがきに、「まだ書くことがあったのかという驚きが半分である」という風なことを書いた。いまは、さらに、まだ書くことがあったのか、という驚きと、それを書けたという驚きとで、いっぱいである。 それでも、少しずつ書き継ぐうちに、何とか格好がつきそうになったので、一冊にまとめることにした。 偏屈で死にかけの老爺の、この一書を「イタチの最後っペ」とご笑覧いただけたら幸いである。 では、グッラック。 唯一書くことで命をつないでいると言ってもよいくらい、「書くこと」への執念が竹岡準之助さんの命をこの世につなぎとめている。 それに驚き感じ入ってしまう。 本文をすこし紹介したい。 スタイル ある俳優が、老境に達してから、「齢をとると、苦しまないで死ねるのがいいですね」という意味のことにふれた『老優の述懐』(幻戯書房刊)を上梓してから十年が経つ。 私は九十歳になった。いま東武東上線・東武練馬駅近くのホスピスの病棟にいる。入院する前から、自分で何もできなくなってからの入院だった。食欲は衰え、四六時ちゅう眠ってばかりいる毎日だった。 極端な場合は、朝食も昼食もパスして、娘に起こされてみると、夕食だったりする。つまり、朝から晩まで寝たきりだったりすることがよくある。 入院してからもその傾向に変わりはない。食欲は相変わらずでもともと小食のうえに口に合わない病院食に閉口している。主菜のおかゆも副菜も二、三口食べるのは小さなプラスチックの容器に入ったアイスクリーム二、三口と、冷たい牛乳二、三口、デザートの一、二切れだけ。これだけ食べるのに、青息吐息、二、三十分はかかる。睡眠も同じで、最近では、食事をすませて横になると、すぐに寝入ってしまうようになった。ずっと点滴で栄養剤の補充はしてくれているのだが、どの程度の効果があるのか。 またあるスタッフを相手に「きょうは何日?」「五月二日」「何曜日?」「面会の日だね」「何時からの予定?」「三時半からのようです」「いま、何時?」「九時」とも応答があったりする。曜日もなく、昼も夜もない。終末期の混沌とした病院暮らしにどうやら入りかけたようだ。ともかく、かつて老優がいったように、このままあの世へいけるのだったら楽でいい。 新聞もTVもほとんど見ないので、脳を多少とも刺激してくれるのは、寝ているうちの雑念や妄想の類いだけだ。 身辺雑記や詩集もどきの知友への近況報が書けなくなったいま、一種の暇つぶしと、老生を生きるモチベーションになっているのは、やはり最後に残された技能─書くことではないか、と思ったりもする。ただ、書くといっても、もう出てくる言葉が少なくなったので、それで今回はこんなスタイルになった。 誤字・脱字、まさかと思える同じ字句の繰り返し、一節の首尾一貫に欠けたり等が多く、とても他人様に見せられるようなものではない。そこで、少しお化粧直しを施したほか、そこそこひとことでしぼり出すようにして、何とか、格好をつけた。 わたしの点鬼簿─ 近しい人たちの死について 近しかった人の死については、これまで何度も書いてきたが、まだ息のある間に、改めて、もう一度振り返っておきたい。簡単に、短く。 昭和二十八年(一九五三)、早大仏文科に入学して、青森県八戸市出身の三浦哲郎と出会い、親しくなった。同県出身の作家・太宰治に心酔していた作家志望で、三歳年長だった。二年生のとき、あとさき考えずに、盛岡出身でのち新聞記者になった佐藤光房らと同人誌「非情」を創刊、三浦は三号に発表した「遺書について」改め「十五歳の周囲」で第二回新潮同人雑誌賞(現・新潮新人賞)を受賞した。ちなみに、次の年、同賞を受賞したのは、瀬戸内晴美(のち寂聴)だった。 三浦は、数年間、雌伏のうえ、乾坤一擲書いた「忍ぶ川」で芥川賞を受賞して、一躍人気作家になった。老成したあとは『白夜を旅する人々』で大佛次郎賞を受賞するなど、かずかずの名だたる文学賞を受賞した。 晩年は、原因不明の奇病に悩まされ、それを「肉体について」という連載小説にまとめかけていたが、体調がすぐれなかったのか、中断したままになり、没後の刊行となった。 ある日三浦の家族から、三浦がいま入院していて、近しい人には会わせてあげておいた方がよいと、告知があったといってきた。 真夏の炎暑の日、千駄木の日本医科大付属病院に、三浦を見舞った。集中治療室には、徳子夫人と三女が看護に当たっていた。三浦は力なくベッドに横たわって、延命治療を受けていた。鼻腔や口腔に、何本ものカテーテルをつながれ、眼はかっと見開いていた。 三浦の訃報を知ったのは、TVだった。行年七十九歳。忌日は二〇一〇年八月二十九日である。 新聞や文芸誌に作品を発表しつづけてきたことから、それらの新聞社や文芸出版社らが主催で、落合の最勝寺で盛大に葬儀が営まれた。級友の田島幸男と一緒に、三浦の骨を拾ったのを憶えている。 没後、『三浦哲郎自選全集』の月報に寄稿した「北館の一夜」や当時、小社で発行していたミニコミ誌「パピヨン」に書き留めた「最後の別れ」、三浦が作家になり、私が編集者になった証しというか記念として、三浦がおふくろさんのことを書いた小品集『柿の蔕』を、のちの人間国宝の工芸作家・芹沢銈介に依頼して限定出版したことなどを書き集めた『白夜の忌─ 三浦哲郎と私』(幻戯書房・二〇一四)を出版したことも、最後に、書き留めておきたい。 三浦哲郎のほか、映画監督だった前田陽一、幼馴染みの永井康久、亡くなった父、弟、母、妻へのことなどが記されている。 「延命治療」と題されたものより抜粋して紹介したい。 延命治療のことは、級友で作家として大成した三浦哲郎の最期のときのだいたいのことを知っているので、痛ましいものであることは、わかっている。なので、答えかねたが、それを受け容れることが、ここへ入院することの一つの条件かとも思われたので、それもアリかな、と思って承諾した。 ところで、医師が患者本人から延命治療は受けない、という承諾をとったという経緯はわかるとして、それが、家族とも話し合ったうえだったのかは、わからない。娘は、入院前、ここの院長とも面談する機会があって、そのとき、すでに、その話は聞いたかもしれない。娘がよく考えて黙っているだけかもしれない。 いずれにしても、患者本人も苦しまずに死にたいと思い、家族もまた、患者を、苦しませないでいかせたいと思っている。延命治療を選択する究極の妥協点が、どこにあるか、見出せるのか、よくわからない。 ちなみに、当院には、麻酔措置の用意はないという。 ここで、この散文詩は終わっている。 この散文詩を読んでいると、ほぼ寝たきりで死を覚悟しつつ日々をおくる作者が、いかにすこしでも人間的であることへ自身を持していたいか、無理をせずに精神的に自然体であろうとしている、そんな作者がみえてくる。 そして、まだ生の側にいる自身が、頭を目覚めさせつつ書き記すことによって自身の生を刻印しているのだ。 死者となっても彼を知る残された人たちの心へ、できうる限りの最後まで、自身の生を刻みつけておきたいそんな前向きな強い思いを感じる。 文字を記すことができれば、人間でいられる、そんな風にもおもえて、それは、文筆をなりわいともしてきた竹岡準之助さんの生をまっとうする在り方なのではないか。 竹岡さんみずから『ホスピスにて』となづけたこの散文詩集を拝読しながら、わたしはそう思ったのだ。 この散文詩集は、すでに竹岡準之助さんより、ご友人や知人の方々に送られていることと思う。 ちなみに竹岡準之助さんは、大谷翔平の熱烈なファンであるということ。 大谷翔平が2017年にエンゼルスに入団したときからのファンであるということ。 今年の大谷の素晴らしい活躍は、きっと竹岡さんから死が遠のいたのではないだろうか。 わたしはそうであって欲しいと思っている。 大谷選手、竹岡さんのためにも頑張れ!! 竹岡準之助さんが、編集・発行された季刊誌『papillon(パピヨン)』(1997~2121)
by fragie777
| 2024-09-25 20:47
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