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9月22日(日) 秋分の日 更待月 旧暦8月20日
「蝶豆(ちょうまめ)」 美しい紺色だ。 はじめて知った花。 この花で透明感のある青い花茶を作れるといういことも知った。 昨日の谷保の里山に咲いていた。 この紺の色をうっとりと眺めていたら、友人のKさんがやってきて、 「野朝顔だよ」って言う。 「あら、そうなの」ってすっかり彼の言うことを鵜呑みにしてしまったのだが、いま調べてみると「野朝顔」ではないことがわかった。 Kさんは、「野朝顔にはこの紺の色しかないんだよ」と。 「素敵な色ねえ」とわたしは見入ってしまった。 野朝顔のことを教えてくれた、Kさんに、「最近どう?」ってわたしは尋ねる。 体調はすこし気がかりな部分がある。 「まあ、こんなだからさ、出かけることもあまりないね」 「競馬はどうなの」 「ああ、競馬場にはいくよ。」 「あら、そうなの、儲かってるの」 「大もうけはできなけどさ、まあ、損をしない程度にそこそこはね」 「あら、いいじゃない。損してないんなら、上等よ」とわたし。 よく見れば、どうしたって朝顔の葉ではない。 豆科の葉であることがよくわかる。 競馬の話に気をとられてそこまで気づかなかったのだ。 今度Kさんに会ったら、「野朝顔じゃなかったわよ」って言うつもり。 きっと驚くだろうなあ。 この「蝶豆」「バタフライピー」という名で知られることが最近は多いらしい。 この花をお湯に浸すと美しい青の花茶になるという。 しかも、そのお茶にレモンをたらすと、こんどは紫色になるという。 一つのお茶でふたつの色が楽しめるらしい。 そういえば、よく行く飯能・名栗のカフェで青から紫にかわるお茶を飲んだことがある。 そうか、あれがこの「蝶豆」のお茶だったのか。。。。 と深くなっとく。 今日は、仁平勝著『永田耕衣の百句』より朝顔を詠ん句をふたつ。 朝顔や百たび訪はば母死なむ 永田耕衣 『驢鳴集』 謡曲「通小町」で知られる深草少将の百夜通いを下敷きにしている。すなわち作者が深草少将なら、母は小野小町であり、これは母と子の恋物語にほかならない。 ストレートに解釈すると、百たび訪えば母は死ぬだろうということだ。それは裏を返せば、母が死ぬまでにせめて百たび訪いたいという思いであり、そしてその思いは、百たび訪うまで死なないだろうという願望に転化する。つまりこの句には、発した言葉が現実になるという言霊の力が託されている。毎朝新たに花を咲かせる朝顔もまた、その言霊に加担しているようだ。 朝顔や死神は少年であつて欲し 永田耕衣 『自人』 『自人』は、平成四年から七年までの句を収録。平成七年一月、阪神・淡路大震災で家が全壊したが、二階のトイレに閉じ込められたところを無事救出された。 この句集から、しばしば「死神」が登場する。掲句では「朝顔」を取り合わせた。朝顔が毎朝違う花を咲かせるように、現れる「死神」もそのつど違うようだ。死神の役割は人を冥途に導くことだが、「少年」なら一緒に行ってもいいということか。耕衣はつまり、「死神」を道行の相手とでも考えている。花道で立ち止まり、大向うからの「田荷軒!」という掛け声を期待しているのだろう。 朝顔にはいろいろな色があるが、わたしは「蝶豆」の色のような紺の朝顔がもっと好きだ。 「あっ、バッタ!」って誰かが叫んだ。 「どこ、どこ?」ってその指指す方をみたら、 なんと、 カミキリムシもいたのだった。 バッタもカミキリムシもおもわぬ遭遇におたがい驚いている感がある。
by fragie777
| 2024-09-22 18:56
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