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9月16日(月) 敬老の日 旧暦8月14日
吹く風の涼しい一日となった。 ご近所を散歩する。 荒地盗人萩(アレチヌスビトハギ) こちらは、ただの(?)盗人萩(ヌスビトハギ) そしてこちらは 多くの人の知るところの 萩(ハギ) いまは萩がきれいである。 萩の花はどこか野趣をひめたつつましさがある。 人のこころに訴える花というより、引き寄せられてしまう花というか。。 昨日9月15日は、深見けん二先生の忌日であった。 2021年9月15日に亡くなられた。 萩に手をふれて昔の如く訪ふ 深見けん二 今日は、深見けん二著『折にふれて』より、「主観を豊かに」の項を紹介したい。 主観を豊かに 虚子先生の昭和二十七年十一月号の「玉藻」に書かれた「雑感(二)」(『俳句への道』所収)の中に、「其人の現れ」という俳話があります。 「客観写生、客観描写といふ事を私はやかましくいふのであるが、客観描写をした俳句であつてもそれは遂に其人を隠すことは出来ないのである。その客観描写が堅実であるといふのは其人が堅実であるからである。」とし、客観描写が、瀟洒、高尚、軽浮、あくどい、俗悪であるのは、其人がそうなのであるとされ、「これが芸術の尊い所以である。」と述べています。更に終りは、「客観描写といふのは客観を描写する為に尊いのではない。その客観描写に依つて其人を現すが為に尊いのである。然らば何故特に客観いふか、これは俳句の性質からいふのである。」としめくくっておられるのです。 青邨先生は、「俳句は人」と言われました。これは、俳句は「私の文学である」と言われたことと表裏をなしています。 両師の俳句の魅力と、その文学としての高さは、お二人の人間の器量の大きさであり、文学的な素養の蓄積です。青邨先生は、俳句では内容と表現が兼ね備わったものが完成した作品であるが、それが出来ぬなら内容の豊富なものが望ましいとまで、昭和三年の講演会で言われ、虚子先生も客観写生の時、常に、主観の涵養、内容の新しさを説き続けられました。 主観を豊かにして、客観写生で主観を滲ませたいものとつくづく思います。 朝顔の一碧を咲きつらねたる 深見けん二 老眼鏡をかけたわが家の猫。。。
by fragie777
| 2024-09-16 20:38
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