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9月4日(水) 旧暦8月2日
水にかたむく精霊蜻蛉。 かくも澄んだ水をみると、暑くてもやっぱり秋なのだと思う。 今朝は、井上陽水の「少年時代」を聴きながら車で仕事場にむかう。 ♫ 夏が過ぎ 風薊 ♫ 聴いていたら、 すこし心がやさしくなった。。。。 「水」を持参するのをわすれたので、途中でエビアンを買ってから仕事場へ。 新刊紹介をしたい。 四六判フランス装グラシン巻帯有り 162ページ 二句組 著者の飯塚よし枝(いいづか・よしえ)さんの前句集『涙ひとつぶ』(2011)に次ぐ第2句集である。飯塚よし枝さんは、昭和37年(1962)東京・新宿生まれ、平成7年(1995)「英俳句会」入会、平成8年(1996)「夏爐」俳句会入会、平成16年(2004)「夏爐」同人、平成20年(2008)第35回夏爐佳日賞受賞、平成22年第1回ニーベルバーグ俳句大賞受賞、現在「夏爐」同人、俳人協会会員。本句集に、「夏爐」の古田紀一主宰が序を寄せている。栞文は関悦史さん、西村麒麟さん。 鉄棒に三つの高さ空つ風 小学校の校庭、あるいは小公園のような所。子供の成長に合わせた三つの高さの鉄棒、その鉄棒を吹抜ける空っ風、蕭条とした風景を描いている。この時の吟行会に私も同席したが、よし枝さんは母を亡くされ、孤りとなっていた。 古田紀一主宰の序文である。 お母さまを詠まれた句は「母」と前書きをつけて本句集に収録してあり、看取りから死にむかう母をせつせつと詠まれている。 関悦史さん、西村麒麟さんの栞をそれぞれ抜粋して紹介したい。 関悦史さんのタイトルは「複数の旋律がからみあうように」 囀(さえずり)を聞き分けてゐる空の青 複数の鳥の声に耳をすませているこの句を支配するのはしかし鳥でもなければ聞く己でもなく、限りなく広がる「空の青」である。聴覚に集中するさなかに圧倒的に立ち上がりつづける視覚情報。それは決して人をおしつぶす息苦しいものではなく、かえって聴覚と視覚の輻輳こそが、生きて動く身心を構成しながら、それを同時に明るみのなかへくつろげさせている。 西村麒麟さんのタイトルは「春昼」 とめどなく奇術の花や春の昼 春昼に見たマジックショーにて、次々と手品の花を取り出す様を目にしたのでしょう。花は花でも手品用ですから、おそらくは造花。次から次に偽の花が生まれる妖しさ、面白さ。時に造花は本物の花よりも花らしく、美しく見えることがあります。奇術とは種があるからこそ美しい魔法なのだと思います。 マジック、手品、奇術の中から奇術の語を選んだ作者もそのことに同意して下さるのではないでしょうか。泉鏡花に「春昼」という不思議な小説があることを思い出しました。春の昼に妖しい風味もあることを、作者も鏡花同様に感じているのでしょう。 本句集の担当は文己さん。好きな句をあげてもらった。 噴水の止みたる後を立ち尽くす 骨に似る紙の手ざはり秋立ちぬ モヒカンの子も刷られゐる年賀状 ひとりなれば白詰草に大の字に zoom背景顔侵しゆく神の留守 春筍ののびのびと反り泥乾く 骨に似る紙の手ざはり秋立ちぬ 句集名「骨に似る」の一句である。句集名をみたとき、すこし風変わりでおもしろい句集名であると思った。なかなか「骨」という語彙をいれての句集名はない。一句を読んでなるほどと思った。が、「骨に似る紙の手ざはり」とは、いったいどんな手触りか、とこれまた立ち止まってしまった。紙をさわったときに作者はあっ、骨のようだと思ったのだ。その感触を一句にしたわけで、そこに嘘偽りはないのである。読者はそれをどうとらえるかということになるのだけど、いろんな感触の手触りを個々人が思ってもいいのかもしれない。たとえばわたしなら、なにかゴツゴツとした乾いた紙の感触かな、それをどう表現するかということで、飯塚よし枝さんは、「骨に似る」という措辞をおいたのである。それは読者の目を開かせるようなインパクトのある表現となった。そして読者はその感触を骨をおもいながら手に再現するのである。面白い。「秋立ちぬ」という季語によってきっぱりとした紙の風合いの清爽感が生まれた。 zoom背景顔侵しゆく神の留守 この一句は関悦史さんが、栞にて丁寧に鑑賞をされている。長くなってしまうがそれを紹介したい。「zoom はバーチャル背景を設定できるが、利用者が身動きしたときなど背景画像が顔の輪郭をぼかし、食い込んでしまう。これはそうした素材の新奇さ頼みの句と見えるがそれのみには終わらない。顔とは人の固有性そのもの、身の移動をともなわないオンラインの会合は、固有性への侵食の第一歩ではないかの直観が句にはたらいているのである。句柄がことさら険しく凄んでいないところが詩的な足腰の強さを思わせる。」「神の留守」の季語がややとぼけた味わいをつくりだしていないだろうか、とわたしは思った。面白い一句。 凌霄花(のうぜん)の天国(ハライソ)めける高さかな この句はわたしが気になった句。好きというのではないけれど、「凌霄花」と『天国」の取合わせがすこし変わっている。「天国」にあえて「ハライソ」というポルトガル語のルビを振ったことで、凌霄花の息苦しいような重さに響いているのではないかと思ったのだ。いまは「天国」をハライソということはまずない。近世初期に日本へキリスト教の流布のためにやってきたイエズス会の経典「どちりなきりしたん」にそう訳されていたのがはじめではないだろうか。でもこれは正確な情報ではない。わたしがふと思ったことである。ともあれ「ハライソ」という天国の訳は、厳しい迫害にあったキリスト教徒たちが苦しみにたえつつ血を流しながらひたすら夢見たところの「天国」つまり「ハライソ」である。そういう流された血をおもいおこさせる「ハライソ」のそのイメージは、凌霄花の暗さをともなって咲くさまに似合っているのではないかと思ったのだ。「ハライソ」がいい。 昼休みんな出てくる桜かな なんともあっけらかんと桜を詠んでいる。しかし、よくある風景だ。昼休みだからいい。桜をみながらお昼を食べようかなんて相談をしているのかも。西村麒麟さんもこの一句について書かれている。「昼休の終わりと同時にこのささやかな花見もまた終了します。それぞれが束の間の花見であることを理解している様子は、桜の持つ別れの喪失感を感じさせるものかもしれません。一見明るい俳句に見えて、実は繊細な心理の見える作品なのではないでしょうか。」と読みが深い。はからいのない一句にみえて、「桜」という季語だからこそ詠める一句なのだと思う。〈住所変更せしその足の桜かな〉という句もある。 その横の草の名も言ひ蓬(よもぎ)摘む 句集の掉尾の一句である。好きな句だ。野山をそぞろ歩いているときにはよくあることである。「あっ、蓬、摘んでいこう」なんてしゃがんでみたらその横にもよく知っている草が生えている。「あっ、犬ふぐり」なんて言って、嬉しがる。春の野遊びの風景だ。この句、畳みかけるような叙法が巧みだ。なんの草か名前などはしるさず、「蓬摘む」という季語に焦点をしぼって収めたのがいい。それだけで、その場の景が立ち上がってくる。「野外を満喫している様子がよく伝わってくる俳句です」と西村麒麟さん。 校正スタッフのみおさんは、〈帰省子の耳を鸚哥が咬みにゆく〉「いそいそと咬みにゆく鸚哥がとにかくかわいいです。「帰ってきた」と実感するひとときですね。」 前句集から十三年、句歴が三十年になった。全二八四句。自選を経験し、自句への態度を決めることの難しさ厳しさ、切り捨ててゆくことの爽快感を味わった末の句数だ。私事で多くの決断に迫られた十三年。覚悟というものが身に付き、衒いなく、遠慮もせず、素直に俳句と向き合えるようになったことは遅まきながらの成長だと思いたい。多くの句友がそれを支えてくれた。 二八四句には未発表句及び枝白紙名での発表句も加えた。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 前句集からもう13年も経っているとは、いやはや。 装釘は和兎さん。 フランス装であることを活かして、できるだけ色をおさえて瀟洒に仕上げた。 そして、「骨に似る紙の手ざはり」を念頭に、紙の風合いを大事にした本作りとなった。 グラシンにすけた模様がやさしい。 本はやさしい表情をしている。 見返しは帯と同じもの、 栞も同じ用紙の斤量ちがい。 扉はあえて透きとおる用紙をもちいた。 スピンは白。 かなかなやけふの看(み)とりの駅とほし 上梓にあたりお力添え頂いた「夏爐」主宰古田紀一先生、詞兄関悦史氏、詞兄西村麒麟氏に心より感謝申し上げます。(あとがき) 句集上梓後のお気持ちをうかがってみた。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? 嬉しさと照れ臭さくがないまぜになった気持ちで受け取りました。 装丁については全体のイメージが明確にできなかったので期待半分・不安半分でしたが、思った以上の出来上がり。嬉しいことでした。 (2)この句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい 今回は自選をしたため、自句、延いては自分を見直すことが出来たら良いなという思いがありました。 前句集からやや時間が経っていたこと。その間暮らしに大きな変化があったこと。自分に嘘をつかなくてよくなったこと。など自分が変化したことで俳句を作る上でも変化を感じていたため、単なる総まとめ的な句集にはならないと思った。 読み手を意識し過ぎた句(自分を偽った句)は極力切り捨てた。座の文芸と言われる俳句において、未発表句を入れることに躊躇もあったが、それらを入れる必要があると決断。「それら」とは事実であり本心。そしてそれらを残してみると実に心の安定を得た。カタルシスがあった。 大胆に切り捨てる事でむしろ血肉の通った選になったのではないかと思う。 また一句一句の見極めをクールに出来たのは関悦史先生のアドバイスが大きかった。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 この句集を作ることで、丁寧に正直に句と向き合うことの大切さを知ることができた。一番最初の読み手である自分をもっと信頼しても良いのかもと。そして句座に出て、その結果を素直に真摯に受け止める度量を持つ人間的成長もしたい。 13年分ならば少なくとも300句は残るだろうと思ったが284句にとどまった。正直残せば良かったと思う句もあるが、結果的に残さなかった理由をいま一度考え、今後に活かせればと思う。 飯塚よし枝さん。 ことしの1月16日にご来社のときに。 飯塚よし枝さま。 ふたたびのご縁をうれしく思っております。 もう13年も経っているとは。。。 さらにさらに俳句への一途なお姿をおもいました。 さらなるご健吟をお祈りいたします。 恋の日記出てきし夜は栗ごはん 飯塚よし枝
by fragie777
| 2024-09-04 19:57
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