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8月30日(金) 旧暦7月27日
ヒメムカシヨモギ。 漢字で書くと「姫昔蓬」と書くということを今知った。 可愛らしい名前だけど、別名「鉄道草(てつどうぐさ)」 なんともぶっきらぼうな名前である。 でも、この呼び方もきらいじゃない。 たたずまいとしては「鉄道草」のほうが合っているが、 「ひめむかしよもぎ」って思うとすこしはるけさが心に宿る。 朝のミーティングで、スタッフのPさんが、 「わたしたちのいる調布市も三鷹市も大雨洪水注意報が出てますので、皆さん注意しましょう」と呼びかけた。 「まあ!」ってyamaokaが驚くと 「まあ!じゃありません。一応一番のチーフなんですから、もっとスタッフのこと考えてください!」とお叱りを受けた。 まったく以てごもっともである。 新刊紹介をしたい。 「現代俳句文庫」のシリーズが「現代俳句文庫Ⅱ」の新装版となってはじまった。季語別索引を付した。 その第一弾が、俳人・三宅やよい(みやけ・やよい)さんの精選句集である。 三宅やよいさんは、これまで第1句集『玩具帳』(2000年刊)、第2句集『駱駝のあくび』(2007年刊)を上梓しておられる。この度の『三宅やよい句集』には、『玩具帳』と『駱駝のあくび』抄の作品と『駱駝のあくび』以降の作品が収録されている。ほかにエッセイ「勝手に一歩」、解説は池田澄子、穂村弘、ほかに『玩具帳』の栞の一句鑑賞(坪内稔典・あざ蓉子・池田澄子・内田美紗・小西昭夫・南村健治・本村弘)を収録している。 本文より何句か句のみ紹介をしておきたい。 カバはおばさんサイはおじさん花曇 ワタナベのジュースの素です雲の峰 黒板をぬぐえばみどり卒業す 風光る鳥に小さな頭蓋骨 三組の窓の前だけ花盛り はみだした人から順に柏餅 ほうほたるかぶさって来る森の影 底冷えの京都に光るざらめ菓子 夕暮れが遠くより来る水羊羹 たましいのくびれと思う落花生 湯たんぽのさざ波を聞く朔太郎 エッセイ「勝手に一歩」は、2018年に「WEP俳句通信」10月号に寄稿したもの。「わが俳句、先の一歩をどうするか」というテーマのもとに書かれたものである。 最後の数行を紹介しておきたい。 自分の作る句にあまり期待はしていないが、句の魅力ある言葉の成り立ちを学ぶことで今後の自分の糧にして、次に踏み出してゆく一歩を考えてみたいと思っている俳人は何人かいる。栗林千津、清水径子、中尾壽美子この三人の先達の次のような句に興味を持っている。 餅食うべ体内に芽のやうなもの 清水径子 アネモネや千里の先に吾れを置き 栗林千津 傘寿とはそよそよと葉が付いてゐる 中尾壽美子 この三人の句集を読み込み、どのような世界を三人がめざしたのか、日々句を作りながら考えてゆくことが目下の課題である。 池田澄子さんは、「『船団の俳句』三宅やよい」と題して、句の鑑賞をされている。 そのうちの一句の鑑賞を紹介しておきたい。 ワタナベのジュースの素です雲の峰 (『玩具帳』二〇〇〇年) この句、よく覚えている。二〇〇〇年刊の句集に入っているのだから、初見はもっと昔なのだけれど、成程~と感心したその時の気分まで思い出させる。「ワタナベのジュースの素」というものが確かにあった。私はすでに少し大人になっていたので愛飲した覚えは余りないが、弟たちが飲むのを味見したりしたような気がする。その味までなんとなく思い出す。「ワタナベ」という苗字がそのまま用いられている。この命名の洒落ていないところが絶妙なのだ。まさか、その名を俳句で思い出させられるとは思わなかった、というびっくり感が、この句を記憶させたようだ。いかにもの粉末のオレンジ色が目の前にちらちらする。「雲の峰」は、暑さを愉しむ健康、その幸せを現す。 句集『玩具帳』の栞によせた一句鑑賞からは、坪内稔典さんと内田美紗さんの鑑賞を紹介させていただく。 坪内稔典さん。 銀の蛇かくしていそうな柿若葉 柿若葉はその光沢の瑞々しさが特色だ。小説家の大江健三郎は、少年時代に見た小きざみに揺れる柿若葉から、「谷間を囲む森全体を発見し」、「自分の生き方の様式がすっかり変わってしまうほどの影響を受けた」と言う(『私という小説家の作り方』)。大江がしばしば敬意をこめて言及する正岡子規も、枕元の草花の一枝を見ていると宇宙の摂理がわかる、と述べた(「病牀六尺」)。大江の言っていることはこの子規の言葉とぴったりと重なる。そして、わが三宅やよいの「柿若葉」の句も、大江や子規の感じたものとほぼ同じものを鋭く、そして端的にとらえている。「銀の蛇」は大自然や宇宙の何かだ。 内田美紗さん くらがりに靴のふえゆく花野かな 花野は、花がいっぱいなのに淋しい。そしてすこし怖い。そんな花野のくらがりに、つぎつぎと通り過ぎて行った人たちの残した靴だけが累々とある光景はもっと淋しくて恐ろしい。靴を失った人たちは、〈秋空を渡る人足黒々と〉の句のように去って行ったのだろうか。 ある彫刻家が〝作品には不思議さがあることが大切〟と語っていて納得したが、個人的には、そこに怖さが含まれていればなお好ましい。 『玩具帳』の作品は総じてライト・バース風だが、ところどころに潜んでいる、ちょっと不思議でなんだか怖い句に惹かれた。次の句なども。 排水口にパーの手がでるおぼろ月 穂村弘さんは、「命を甦らせる快楽』と題して「詩歌」と「世界」の関係について考察をしている。面白いエッセイである。 私たちが詩や短歌や俳句をうまく読めなかったり、苦手に感じるのは何故(なぜ)だろう。学校や会社で普通に使われる散文は「社会」と繋つながっている。それに対して、詩しい歌かの言葉は「世界」と繋がっているのだ。私たちは物心ついた時から「社会」的にきちんとチューニングを合わせることを要求されて、幼稚園や学校や会社で長年訓練を受けてくる。その結果、いわゆる常識やコミュニケーションスキルを身につける。それらは「社会」の運営上確かに必要なものだ。しかし一方で、その訓の結果、私たちは子供の頃もっていたような「世界」を直接味わう感覚を衰弱させてしまう。旅行やギャンブルや恋愛といった反「社会」的な時空間でだけ、「世界」に直接触れる自らの命を強く実感できるのはそのためだ。 そして、詩歌とは本来そのような領域に属する言葉なのだ。恋をすると誰でも詩人になる、と云(い)うではないか。詩歌を読むことは「世界」に触れて命を甦(よみがえ)らせる快楽を味わうこと。例えば、句集『駱駝のあくび』は手を伸ばせばすぐ「世界」に触れられる場所にまで読者を連れていってくれる。 ナイターのみんなで船に乗るみたい こちらは球場の光景か。なるほど、夜のスタジアムは定員五万人とかの巨大な客船のようだ。いや、もしかするとこれはあの方舟(はこぶね)というやつかもしれない。五万人の視線が試合というただひとつの運命の行方を真剣に見守っていることが、この感覚を強めてくれる。 「あとがき」を紹介しておきたい。 俳句を始めて二十数年、思いがけずに現代俳句文庫に加わることができました。 大阪で坪内稔典先生と出会い俳句への道を開いていただきました。先生は常に私を励まし見守ってくださいました。東京では詩人の清水哲男さんから広く俳句を読む楽しさを教わりました。本当にありがとうございました。 俳句がもたらしてくれた数々の出会いに感謝しつつ、新たな一句を追い続けていきたいと思います。 三宅やよいさんは、いまは坪内稔典さんが主宰するところの「窓の会」へ常連として参加されていると、略歴にある。 ツバメ来るきしもと食堂に列 『駱駝のあくび』以後の句。わたしの好きな句。 この句をみて、「きしもと食堂」って、岸本尚毅さんがやってる食堂!?って思ってしまった。そんな訳ない。岸本さん、ごめんなさい。でも、好きな句である。この「きしもと食堂」、きっと気取りのないお店なんだと思う。カレーライスとかカツ丼とかオムライスとかつくっていそうなお店で、美味しくて人気店である。だから列をつくって人は並んでいる。そこへ燕もやってきた、いいや、ちがう。まず燕がとびかう広い気持ちのよい空がある。燕の来る季節となったのだ。その空から視線は目の前のきしもと食堂へ、そこに並ぶひとの「列」と収めたところで、俳句が引き締まった。ひろびろと動くものから、うごかない建物へ、そして人間の列という縦の線がみえる。その視線の行く先がよく見えてくる一句である。「きしもと食堂」という固有名詞がとてもいい。 さて、台風情況はどうなっただろうか。 ふらんす堂界隈は小降りである。 スタッフたちは帰り支度をはじめた。 わたしもそろそろ帰ろう。 「くこの実」を買うのをわすれないようにしなくっちゃ。
by fragie777
| 2024-08-30 18:35
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