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8月27日(火) 天地始粛(てんちはじめてさむし) 旧暦7月24日
谷保天神裏の池の鯉。 ここは湧水なのでいつも水が澄んでいる。 「第15回田中裕明賞」の冊子が出来上がってくる。 冊子「第15回田中裕明賞」 関係者の方への寄贈本は、本日スマートレターで発送。 まもなくお手元にとどくと思う。 ご希望の方は、できるだけ早く注文をしていただきたく、 倉庫移転のため、9月中旬から下旬にかけて、注文に対応できなくなります。 新刊紹介をしたい。 A5判正寸ハードカバー装 140頁 三句組 俳人・矢島渚男の第10句集となる。前句集『冬青集』(第50回蛇笏賞)より、9年ぶりの上梓となる。 「二〇一五年から二〇二二年までの句を収めた。八十代に入って八年間の作品である。」と「あとがき」にある。 本句集は「何をしに」という句集名としてはやや変わったタイトルである。しかも、本の表に箔押しで押されている文字も、すぐには判読しがたいような筆書きである。 この文字は高村光太郎のもの。 矢嶋渚男氏のたってのご希望によるもの。 何をしにホモ・サピエンス星月夜 「何をしに」というタイトルとなった一句である。 この一句には、「いったい何をしに」という問いかけが含まれている。その問いかけの相手は、我をふくめた「ホモ・サピエンス」つまり人類に向けている。「星月夜」という季語によって、読み手に地球を意識させ、地球という球体に乗っかった人類への呼びかけとなっている。 思うに「何処に行く」ではなく、「何をしに」という問いかけであることによって、「何処にいく」であれば、自身を抜いた呼びかけであるのに対して、「何をしに」という行為を問うことによって、それば自身にも返っていくものとして問いかけとなっている。 そして、この一句の呼びかけは、この句集をつらぬくひとつのテーマとなっているのではないか、と思った。 この句集には、目次の裏にあたる部分に、和泉式部の歌がそっとおかれている。 なにはがたみぎはの葦に たづさはる 舟とはなしにあるわが身かな 和泉式部 己自身の生きにくさをもそっと呟くように。 以下好きな句のなかから数句を紹介していきたい。 面白い句がたくさんあって矢島渚男という俳人の守備範囲の広さ、深さに驚くと同時に、衰えることのない知力と精神力にも驚く。 菖蒲湯に齢寂しむことすまじ よく分かる一句である。菖蒲湯につかりながら、自身の老いを思い、それをさびしく思う。しかし、そう思う自身を見つめながらも、「すまじ」という意思表明をあえてする。それは端午の節句の日に入る「菖蒲湯」という季語のもつベクトルに響きあっている。わたしが矢島渚男という俳人が面白いと思うのは、わが身をなげき世をなげきながらも、つぎにこんな句を配する茶目っ気というようなゆとりである。〈湯の菖蒲頭に巻いてみたりけり〉。子どもでもなければ、およそこんなことはしない。童心に帰ったのか、菖蒲を頭にまいてちょっといたずらっぽい顔がみえてくる。 人間の天皇を見にゆきし秋 「父と上田市営球場」という前書きがある。回想の一句だろう。天皇は昭和天皇。上田市にある野球場へ天皇が野球見物に来られたのを父とふたりで見にいったのだろう。「人間の天皇」とあるから「人間でなかった天皇」がいたわけで、「人間でなかった天皇」の時代を生きた時間と「人間の天皇」となったいまを生きていることに対してのある批評が背後にある一句だ。その屈託ある思いは父のほうがはるかにつよく、その父の複雑な心境をこどもながらに感じとったのだと思う。そうしていま、回想の一句として記されたのだ。複雑な感慨として作者のなかに生きつづけてきたものがこうして時を経たいま、一句として甦ったのである。シンプルな表現ながら、背後にあるものは深い。 老の涼しさアルゲリッチの連弾は 「齢を寂しむ」ことを自身に禁じているそんな日もあるが、「老い」をこころよく受け入れる日もある。それが人間である。好きなピアニストのピアノ演奏を聴くときはなんとも至福な時である。この日はアルゲリッチが連弾をしている、それを心地よく聴いているのだ。老の楽しさではなく、老の「涼しさ」という季語によって、歳をとることも暑苦しいことではなく、それもまた身軽な涼やかなものとして受け入れられる、そんな姿がみえてくる。「楽しさ」であったらその場限りだが、「涼しさ」とすることによって、「老いる」という時間そのものが涼しいものとして見えてくる。生きて来た時間が軽やかなものとしてあるのだ。それは常ではない、至極の音楽を聴くときに、である。上7はかろやかに、後半は強い語句をおいて決める。叙法が効果的である。 お日さまをあたためてゐる椿かな この一句、好きな句なのだけれど、なんで好きなのかと自問してみた。「お日さまが」ではなく、「お日さまを」なのである。椿パワー、スゲーってことになる。まさか、椿からビーム光線のようなものが出て、お日さまに到達、なんてことはあり得ない。けれど、この「お日さまをあたためてゐる」という措辞がとてもいい。お日さまは温めてくれるものであって、温められるものではないなんて思ってしまうけど、ここでは真っ赤に咲く椿一輪とお日さまとよびたくなるような優しい太陽が睦んで居る姿がみえてくる。そして一輪の赤い椿がお日さまにむかってあたたかな日射しをおくっているかのように。椿だけがもつ秘やかなパワーである。 考へる形にいきみあたたかし この句もいいなあ。排泄行為をするとき、とくにウンチをするときに人間はいきむ。その姿が「考える形」だというのだ。この句をみたとき、わたしのみならずおおよその人があのロダンの彫像「考える人」を思い起こすだろう。思索する人間、う~む、それが、やがていきむ人間となる。ちょっと笑ってしまう。下五におかれた「あたたかし」にぐっと来る。考える形でいきむ人間ってなかなか素敵な生きもの、かもしれない。 ほかにもたくさん良き句がある。 本句集を読んで、好きな句を捜してほしい。 きっとどの人もみつけられるはず。 だが、この句集がかかえている命題は大きい。 二〇一五年から二〇二二年までの句を収めた。八十代に入って八年間の作品である。この時期の後半は世界を覆った疫禍で家籠りの日々が続き、地球の温暖化が進み、さらに戦禍が相次ぎ、人類は存亡の危機に臨んでいる。それらへの思いはおのずから作品に反映されているであろう。題名は〈何をしにホモ・サピエンス星月夜〉からとった。 「あとがき」の前半部分を紹介した。 本句集の装釘は君嶋真理子さん。 矢島渚男氏のご希望である。(君嶋さんの装釘を気に入っておられるのだ) グレーの布クロス。 扉。 花布は黒。 栞紐はグレー。 クロスは麻の風合い。 炎天やことばに生きるほかはなく 私は、小さいが四季の変化に恵まれた島国に生まれ、ここに伝えられた極小の詩型に遊び携わってきたに過ぎないが、文明の危機を憂いつつ、それが杞憂に終わることを願うのみである。(あとがき) ほかに、 ものもたぬ鳥獣虫魚水の秋 よく忘れよく生きむとす丁字草 A I の世となるあはれ西行忌 ヒロシマのナガサキのひとりひとりの死 晩涼や大谷打つたか打たなんだか 寂しさを力ともせむ沙羅の花 黒豆の黒こそうれし闇の世に 多くの人に読んで欲しい1冊である。 ―なにをしようとするのか、とくと尋問させることだ。 けわしい山に登るにはまずゆっくりと歩きはじめねばならぬ。 怒りはいきり立つ馬のようなものだ、勝手に走らせれば おのすから疲れはてる。 (シェイクスピア「ヘンリー八世」より)
by fragie777
| 2024-08-27 20:02
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