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8月6日(火) 広島原爆忌 旧暦7月3日
そして、 まぶしいばかりの輝き。 岩田奎著『田中裕明の百句』が出来上がってくる。 ドキドキしながら手にする。 ああ、出来上がった。。。 海亀でよかったな。 執筆者は岩田奎さん。 この一冊は執筆者の岩田奎さんによって、明確な意図をもって書かれたものである。 冒頭におかれた「はじめに」を紹介したい。 「本書の想定読者は、俳人ではない。まず、俳句と無関係な人文系・芸術系の学部一年生。つぎに、むしろ短歌や川柳、現代詩のほうに親しい人。あるいは鑑賞力をつけたい高校生や初学者。これらの人を念頭に書かれた本だ。 田中裕明は、現代俳句を代表する作家といってさしつかえない。つまり、俳人たちによってずいぶんと読まれてきた。同門・弟子筋・友人など、多くの人がすぐれた分析や証言をしている。裕明の影響を語る若手は多い。換言すれば、令和俳句の通奏低音、共通のコードといえる存在なのだ。音楽業界の人が好きな音楽、映画業界の人が好きな映画。裕明はそれと近いところがある。そのよさは、しばしば俳句好きに向けて語られる。けれど、裕明はもっと広く読まれる価値のある表現者だ。そして、それをつとめて外部向けに解剖する鑑賞があれば、それは裕明俳句だけでなく、他の俳人が書く今日の俳句の楽しみ方のガイドにもなるのではないかという大それた仮説が本書のコンセプトだ。もちろん、俳人にも歯応えのあるものを心がけたつもりだが。 この方針を反映して、本書は他の「百句シリーズ」と異なる三つの特徴をもつ。 一、 極力ハードルを排するため、各季語がどういうものかから解説し、句の読み方がわからなくても推測できるようにルビを多く振った鑑賞文になっている。予習しておくべき俳句用語は「上五(かみご)・中七(なかしち)・下五(しもご)」(五七五の各部分を指す)くらいだろうか。 二、 俳句以外の情報、たとえば裕明の実人生とか作家としてのキャリア、人間関係、句の背景などはほとんど省き、かわりに巻末の小論にまとめてある。読者には、テクストのみを相手どった評者の悪戦苦闘に集中されたいが、もちろん巻末から読みたい人はどうぞ。 三、 百句は制作年代順に並んでいない。ガイダンスの冒頭二句としめくくりの最終句を除いた三から九十九句目は、一月から十二月へ一年分の季節を辿るように構成されている。 いやはや、このように周到に入門テキストとして意識化されていることに、わたしは担当の編集者であったのに、あらためて驚いている。 ゆえに、俳人・田中裕明への入門として、また俳句入門としても優れたテキストになっていることは間違いない。 本文をすこし紹介しておきたい。 まず、一句目。 みづうみのみなとのなつのみじかけれ 『夜の客人』 俳句、とくに裕明俳句の第一の鍵。声に出して音やリズムで味わうこと。俳句は意味だけではないのだ。これは高原の湖の、淡水魚をとる漁船とか遊覧船が発着する小さな港か。その夏がすぐに終ってしまった。青い湖水を眺めていると、もう肌寒ささえ覚える。ここで、音韻をみよう。四つの「み」(そのうち三つは頭韻を踏んでいる)と二つの「な」がなめらかに流れていく。その韻律に上質なさびしさが宿る。「みじかけれ」は已然形だから文法上は破格なのだが、なにかそのあとに続いていきそうな気配がする。もちろん平仮名表記も味のひとつ。 季語=夏(夏) 本書においては、一句目、二句目、そして最後の一句は、執筆者である岩田奎さんのはからいのうちに置かれた句であるので、ここでの紹介は一句目のみにとどめておきたい。二句目、最後の一句にどんな句がおかれて評されているか、想像してもらうのもいいかもしれない。 たはぶれに美僧をつれて雪解野は 『櫻姫譚』 美僧というのは倒錯した存在だ。彼の美貌は、ややもすれば仏道を妨げる結果を招くだろう。そんな人を、それも戯れに伴って歩くのだから、いささか危ない道行の想像もはたらく。なにしろ雪解(ゆきげ)というのは一種、春という生命的な快楽への招待である。潤む土ととけのこる雪。ほぼ倒置のような強引な形を用い、主題を提示する助詞「は」で終らせたことで、二人をつつむ野の広がりが一気にヒキで映る。現実にかろうじてありえそうな景ながら、絶対に幻想だと思わせる精密なエロス。「ぶ」「び」「げ」の濁音が、光に満ちたこの静かな世界に響く。 季語=雪解(春) 柿の花から柿の実になるところ 『先生から手紙』 裕明の師・波多野爽波の〈鳥の巣に鳥が入つてゆくところ〉と較べるとこの句の特性がわかる。爽波の句は、微細な一瞬を捉えて引きのばし、「ところ」と言いとめている。かたやこの句は、初夏に咲いた柿の花がしぼみ、その花托に小さな実がつき、秋へ向けて膨らんでゆく半年弱の時間をハイスピードカメラで捉えてその時間を「ところ」と圧縮したようだ。もちろん実際にはその中間段階の小さな硬い青柿を目に留めたというだけなのだろうが、俳句に不向きとされるゆっくりした時間の流れがそこに折りたたまれているような不思議な気配がする。 季語=柿の花(夏)・柿(秋) 宿の子の寝そべる秋の積木かな 『花間一壺』 宿の子は親が忙しいので一人遊びに慣れているようでいて、見知らぬ大人に気にかけてもらう喜びもしたたかに知っている。手伝いにも駆りだされないほどの齢。その気ままな遊びぶりを眺めていると、修辞上はかなり唐突に秋が介在する。床の冷たい質感と積木の温かい質感、旅先の時間の過し方、宿の子とこの人の距離感、どれも秋らしい。この句の具象は小さく横に広がり、それから小さく縦に広がる。具体的な季語が入ると景色が中途半端に拡散し、そこで止まってしまう。ひきかえ秋の一語は、積木から無辺世界へ広がりつくすスケールをもつ。 季語=秋(秋) 目のなかに芒原あり森賀まり 『夜の客人』 森賀まりが人物の名であるらしいということは推測できるだろう。その人は佇んで、芒原(すすきはら)を眺めている。その瞳に、芒原が映りこんでいる。実際に瞳のなかにくっきりと芒の穂が見えるわけではないだろう。二人で芒原にいるというだけだ。けれどもこう書かれることで、森賀氏自身が芒原の性を負うている、芒原の人であるということを感じさせる。風がときに弱く、ときに強く吹いている。並びたつ、または向いあう二人を中心にして芒原が広がる。「芒」「森」の対比、「あり」「もり」「まり」のリズム、漢字と平仮名の配合。天衣無縫の一対。 季語=芒(秋) この鑑賞、わたしはすごく好き。 もっとたくさん紹介したいところであるが、実際に本書を手にして読んでいただきたい。 読む度に発見のある一書である。 「田中裕明小論」と題した巻末の解説もすこし紹介しておきたい。 ここでは、田中裕明の生涯を紹介するとともに、第1句集から第6句集について俳句を数句あげながら触れている。 そして、 裕明は生活空間にたえず古典世界への通路を垣間見た。それは身の回りの人々を、言葉を介して古典へ昇華するという顕彰の形でもある。〈大蔵省造幣局長雪装束〉は当時実際に大蔵官僚として造幣局長に赴任した戸恒東人氏(現「春月」主宰)の歓迎吟行が豪雪の北近江で催されたさいの句だ。関西の俳人たちの盛んな交流を思わせる。挨拶の心があるが、決して通俗性に流れない。現実の事物を詩の世界へ送りとどける案内人のようだ。 (略) 言葉の人であったけれども、世界の真理を究めようとする人であったけれども。裕明は、言葉は思考のみからなるのではなくて、実人生や身辺のくさぐさのことによって生れるものなのだということを、人生を進めるにつれて実感した詩人でもあったのではないか。 今年は田中裕明没後20年目となる。 いやはや、なんと20年も経ってしまった。(本当はこの没後〇〇年という言い方、田中裕明さんには使いたくないのだけど、、、) その20年目にこの1冊を刊行できたことは、感慨深いものがある。 本書刊行のために真摯にとりくんでくださった岩田奎さんにこころからの感謝を申し上げたい。 海亀の涙もろきは我かと思ふ 田中裕明 わたしはカバーの海亀をそっと撫でてみる。。。。 (たくさんの人に読まれますように……)
by fragie777
| 2024-08-06 19:12
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