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7月24日(水) 旧暦6月19日
日差しに透ける白雲木の葉。 雨上がりでしっとりと透きとおっていた。 こちらは雨粒をのせて光る笹。 緑が美しい。 朝日にキラキラと耀く。 雨あとの林をあるくのは、瑞々しくてとても気持ちがいい。 石嶌岳著『皆吉爽雨(みなよし・そうう)の百句』が出来上がってきた。 俳誌「山茶花」、「ホトトギス」を経て、「雪解」創刊主宰した俳人・皆吉爽雨(1902~1983)の百句鑑賞の入門書である。執筆者は、「雪解」同人として、皆吉爽雨に俳句を学んだ石嶌岳(いしじま・がく)さん。 解説で石嶌岳さんは、こう記す。 爽雨はいう。「自然という相手と、虚心に正面きって向き合うて、やがて、微笑が交わせた時に俳句は生れる」と(『三露』あとがき)。 自然と自己との交感のなかで、自然の方から作者に語りかけてくるまでじっと自然を見つめているのだ。そして「微笑が交わせた時」が、ものが新しく見えた瞬間であり、そこから俳句が生まれてくるのである。虚子のいう「ぢつと眺め入る事」の爽雨流実践である。 爽雨は、「ホトトギス」の虚子に学び、虚子の客観写生、花鳥諷詠を継承しつつ優美にして枯淡な境地を開拓していく。石嶌岳さんは百句の鑑賞に、ときには爽雨自身の自解なども紹介しながら、爽雨の作品を読みすすめていく。 作品と鑑賞をいくつか紹介をしたい。 まずは18歳のときの俳句から。 さら〳〵 と又落衣や土用干 『雪解』(大正9年作) 第一句集『雪解』(昭和十三年刊)は、大正九年から昭和十三年までの句を収める。すべて高浜虚子選の「ホトトギス」に掲載された作品である。虚子は句集の序で「はじめて俳句を作つた大正九年に既に〈さら〳〵と又落衣や土用干〉といふ句がある。既に其才の尋常でないことを思はしめる」と記し、「景色を叙するにも人事を叙するにも気の利いた才走つた着眼点のあることに気がつくであらう」と評している。跋では大橋櫻坡子が「爽雨君の句は最も純正なる写生俳句である」と記す。このとき爽雨は十八歳。すでに老成した一句である。 花ふぶきやみて一片幹つたふ 『寒林』(昭和14年作) 第二句集『寒林』(昭和十五年刊)は三省堂の「俳苑叢刊」シリーズの一冊。日中戦争のなか京都の円山公園に行く。桜の散りゆく景を丁寧に写生している。爽雨は「桜の一花一花、一木一木に眼を近づけて、写実としての桜花を描いて、その近視的描写からあるひろい情景なり気分をひろげようとする手法の実行をはじめていた」と自解に記す。昭和十三年、「俳句研究」で「現代俳句を中心に」と題し、山口誓子、日野草城、嶋田青峰らと座談会。誓子は昭和十年に「ホトトギス」を辞して「馬醉木」に参加、草城は昭和十一年に「ホトトギス」を除名されている。 さはやかにおのが濁りをぬけし鯉 『緑蔭』(昭和19年作) 第四句集『緑蔭』(昭和二十二年刊)所収。 京都の苔寺での作。鯉が自分で立てた水の濁りを描写したところから、「一気に『ぬけし』と表現し得た。その上、一つの情景の写実というばかりでなく、生活の中の一齣が象徴的に感じられるのであろうか」と『自選自解皆吉爽雨句集』に記す。躍動感がある。戦時下の俳誌統合により「山茶花」が昭和十九年九月で終刊。最後の編集後記を「今後は個人同志にて手をとり合う道をひらきたい」と結んでいる。自宅に暗幕を張りながら句会を開いては「ついたち会報」を発行している。 降る雪のかなたかなたと眼があそぶ 『寒柝』(昭和31年作) 「雪がさかんにふっている。眼の前からかなたへかたへと奥ふかく雪片が舞っている。幾重にも錯雑している中に眼をあそばせているたのしさ」と自註にある。 切り取った対象をそのまま詠むというより、見た景を一度自分の内側を潜らせたあとに出てきた言葉なのである。その意味では、描かれた景は、作者の心のなかで捉えられた視覚的表象なのであろうか。自己の感覚の解放がある。つまり、対象が外にあるというより眼と心が近くなっているのだ。これが爽雨のいうところの自然を見ての「内観」なのかもしれない。 一輪にして大寒の椿朽つ 『花幽』(昭和47年作) 第十句集『花幽』(昭和五十一年刊)所収。 「一輪にして」と中七の途中で小休止が入る。この語によって一輪の花が咲いていることをイメージする。そして季語「大寒」によって厳冬の寒さを思い、次の「椿」でもってその花の具体性を眼前にする。大寒に咲いた一輪の椿の花の美が、最後に置かれた言葉「朽つ」によって見事に裏切られ、否定される。ものに即いた具体的な描写ではあるが、そこにはもう美しい椿の花は存在しないというさびしさを伴う。いわば花のイデーの喪失を感じさせてくれる。 鶏頭の雨見ゆ花のすこし上 『花幽』(昭和48年作) 細かい雨が降っている。雨脚は真っ赤な鶏頭の花の上にも降りそそいでいるのだが、ふっと花の上で消えて見えなくなってしまった。爽雨は「くれないに燃え立っている鶏頭と、その上にまっすぐに降りかかる雨が、『すこし上』に『見ゆ』で、私を加えた三者が一つに融け込んだ一句になってはいないだろうか」という。雨と鶏頭とそれを見ている作者。見えているものと見えていないもののはざまに作者はいるのである。その見えていたものが見えなくなった瞬間を捉えている。見えているもののすぐ隣りに見えない世界があるのである。 さかのぼる蝶の会ひたる落花あり 『皆吉爽雨遺句集』(昭和58年作) 大和絵の花鳥画のような優美な句である。蝶の生き生きと上昇する生命と、桜の散りゆく無常、ふたつが邂逅する場のはざまにいる作者という三者が一体化している。生死の邂逅する今の瞬間に作者の眼が出会ったというべきかもしれない。 自然との対話を深めながら、没入するように見ている眼差しは、その深みにおいて造化のいのちの振動にふれたのである。それが心に沁みる美的な言葉の姿となって句に立ち上がってきているのである。 巻末の解説のタイトルは「写生一徹」 石嶌岳さんは、今回「爽雨の百句」を執筆するにあたり資料調べの段階で、今まで知られていなかった飯田蛇笏との関係を知ることとなった。 爽雨は、蛇笏に対して「初学の頃の亀鑑として強い光りで導いて頂き」と恩を記し、蛇笏の「壮観に向って対等におのれを屹立させる詩魂、しかも客観をつくして描き出す骨法」を学んだと述べているのだが、具体的にどのように学んだかは、述べていない。また、他の著者の爽雨論においても蛇笏と爽雨の関係についての言及は見られないのである。そこで、爽雨が俳句を始めた大正期の「雲母」を調べてみることにした。そうすると、蛇笏選の雑詠に投句していて、入選していることを発見したのである。この事実は、爽雨の第一句集『雪解』の俳句の格調の高さと切字の用法を考える上で極めて重要なことであると思われる。 と記し「雲母」に入選した句を紹介し、「まさに蛇笏の骨法を吸収しようとしていることが分かる。」と記す。これについては、解説をさらに読まれることをおすすめしたい。そして以下のように結論づける。 爽雨の俳句は現実から出発している。自然をよく見て、その声を聴いて、深く瞑想して、格調高く表現してゆく。爽雨は、一貫して写生という態度を取り続けた俳人である。その透徹した眼差しを持つ爽雨に対して、水原秋櫻子は「俳句で煮しめた貌」と賛辞を贈っているのである。 ほかに、 ふるさとの色町とほる墓参かな 扇ふと頬にとどめて風は秋 人逝きてその湯たんぽの行方なし 背山より今かも飛雪寒牡丹 風呂の柚の歓喜の一つ背へまはる あぎともて病後もの食ふ小暑かな 白しとて息を白からしめて立つ わたしがよく行く深大寺には、爽雨の句碑が建っている。多分、墓所もあるのだと思う。 春惜しむ深大寺蕎麦一すすり 爽 雨 俳人の皆吉司さんは、爽雨の孫にあたられる。 祖父逝きて蟻とぢこめしマッチ箱 皆吉 司 司さんが十九歳のときの句である。 句集『火事物語』より。 雨上がりの葉のみどりにまけない色のソーダ水。 飲んだら身体が緑になりそう。
by fragie777
| 2024-07-24 18:17
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