カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
7月15日(月) 海の日 旧暦6月10日
歩いて行くことに。 霧雨のような雨だ。 途中のスイカズラの花。別名忍冬の花。 久しぶりに歩いてみると空き地が減って二件ほど家が建てられている途中。 かつては林であり、野良猫たちが闊歩していたところだった。 いやはや、歳月は流れ去る・・・・ 今日は海の日。 海にちなんだ句を紹介したい。 退職す海行く鯛と同じ向きに 『吹毛集』 昭和三十年、五十五歳の誕生日(二月二十一日)に三菱製紙を定年退職する。退職時は高砂工場製造部長。その多忙なサラリーマン生活から解放され、いよいよ俳句に専念することになる。同年十月に『吹毛集』を上梓。 工業高校の機械科を卒業して同社に就職。その三年後に二十歳で結婚し、高砂市の社宅で暮らしてきたが、ここで神戸市須磨区に転居る。掲句の「海行く鯛と同じ向きに」とは、須磨の海を眺めながら、第二の人生を鯛のように自由に生きていくということか。ちなみに、明石海峡でとれる鯛は美味で知られている。 晩年や空気で冷える夏の海 『闌位』 「晩年や」という上五は、西東三鬼の「中年や遠くみのれる夜の桃」がヒントかもしれない。こういう主題の立て方は、独特ではあるが耕衣でなくてもやるこけれども、「空気」をこんなふうに詠んだ句はほからない。 たしかに、気温が下がれば海は冷えるが、それを「空気で冷える」とはふつういわない。「空気のような」とは、意識しないものの喩えである。「晩年」になると、その「空気」が意識されてくるということだ。「夏の海」は若さの象徴だろう。それが自身の中で「冷え」ていくことに、ふと気づく。するともう「晩年」なのである。 か ほかに、 近海に鯛睦み居る涅槃像 『吹毛集』 晩年やまだ海のまま夏の海 『闌位』 たわむれに老い行く如し冬の海 『葱室』 仕事場では「ふらんす堂通信181」を校了にむけて読む。と言っても校正が主眼なのであるが、yamaokaは校正が苦手。しかし、ではある。半分ほどきたときに大きな誤植を二つみつけた。おお! これは。。。ザル校のわたしでも役に立ったというものである。 「こわい俳句」は、藤原龍一郎さんの執筆で、宮入聖(みやいり・ひじり)の一句である。これは知る人ぞ知る俳人だ。わたしには懐かしい俳人である。出版社勤務時代のわたしが存じあげていたころは、刀鍛冶をお仕事とされていたようだが、その後の消息はとんとわからなかった。昨年亡くなられたと、この執筆によって知った。どんなこわい俳句かはお楽しみに。 高橋睦郎句集『花や鳥』の書評は井上弘美さん。丹念な読みによって、高橋睦郎という詩人のもっている重層性をいろんな切り口から読み解いてみせるものだ。読み手の力量を問われる句集『花や鳥』であるが、その魅力を十全に井上弘美さんは語っている。 高遠弘美さんの「わたしのプルースト」は、いつもながら流麗なことばの調べが心地よい。そして学生時代のなつかしい先生がたのお名前が出て来るのも嬉しく、多分高遠さんがとっていた授業はわたしもとっていたもので、志のある生徒と不肖な生徒の違いをまざと見せつけられる思いがするのだが、しかし、高遠さんのあまりにも清らかな向学心に心打たれてしまうと同時にもうそれは、素晴らしいとしかいいようがない。おなじ時間を過ごしながら、かくも、、、、今更であるが。。。 室淳介先生の「反サント・ブーブ」も大久保敏彦先生の「アルベール・カミュ」の授業も採っていたことだけは憶えている。 学生時代のわたしは、美しいフランス語にふれたくて、ジェラール・フィリップが朗読するサン=テグジュペリの「星の王子さま」のLPレコードを購入して、毎朝六畳一間のアパートで聴いていた。林檎をかじりながら。。。 岸本尚毅さんの「虚子研究レポート」は、前回に引き続き、「秋声と虚子」と題して、ふたりの接点について、いろいろな資料にもとづきながらさぐっていこうとするもの。徳田秋声は尾崎紅葉らの硯友社で俳句を学んだ作家であるが、その秋声と虚子はいかなる関係にあったか、本稿をよめば、おのずと分かってくる。虚子の俳人にとどまらない顔がみえてくるのも興味深い。 千葉皓史さんによる「俳書遠近」は、森賀まり句集『しみづあたたかをふくむ』を中心にした森賀まり論である。タイトルは「『だだごと』の変容」。 森賀まりさんは、今は「百鳥」(大串章主宰)の同人であるが、波多野爽波門の俳人である。その爽波門としての文脈から、森賀まりを論じてみせる評論となった。第一句集『ねむる手』 、第二句集『瞬く』にも言及しつつ、森賀まりの特質を肌理細やかに掬い上げるものとなった。いい評だと思う。 そして、髙柳克弘さんの再連載・「現代俳句ノート」は、「加藤楸邨」。 わたしは面白く読んだ。楸邨俳句の「擬人化」についての考察は鋭い。楸邨とアニミズムの関係については、切れ味のいい突っ込みがある。わたしが髙柳さんの評論を面白くおもうのは、古典への目配りがあるということだ、古典を通過したうえでの批評ということによって、論評に厚みがある。文体のしなやかさもいい。 今日は全部のゲラに眼をとおせなかった。 つづきは明日。
by fragie777
| 2024-07-15 18:30
|
Comments(2)
|
ファン申請 |
||