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7月12日(金) 旧暦6月7日
小雨が降っていたが、歩いて仕事場に行くことに。 歩いての出社はほんとうに久しぶりである。 なぜ、歩こうとおもったか。。。 それはね、 わたしが二足歩行のできる人間であるってことを思いだしたのよ。 可能なうちはせいぜい歩かなくっちゃ。 炎天下はきついけど、小雨のなかをいくのは気持ちがいい。 雀がいる。 やあ!って挨拶。 キュルルンと頭をまわした。 可愛いな。。。 甲州街道の交差点にさしかかったとき、大事なことを思い出した。 スタッフのPさんから、ジョルジュ・スーラの画集を持ってくるように言われていたことを。 (マズイ! 叱られるな。。。車だったら取りにもどることもできるけど……) もうすでに、道のりの4分の3以上はあるいて来てしまっている。 (もうこれは謝り倒すしかないな。。) ということで、仕事場につくやいなや、Pさんに謝った。 「朝は憶えていたのね。でも出かけるときにわすれちゃった。ごめんなさい」 「そういう大事なことは、思い出した時点で玄関に用意しておくとかしてください!」とPさん。 返すことばがないyamaokaであった。。。 トホホ。 「ふらんす堂通信181号」の校正ゲラが机のうえにおかれた。 18日の校了日をめざし、眼を通すようにとのお達しである。 特集はこの度も受賞特集である。 第9回千葉県俳句大賞、第2回稲畑汀子賞句集部門奨励賞、第15回田中裕明賞の三賞である。 井上弘美さんによる高橋睦郎句集『花や鳥』への書きおろし特別寄稿もある。 新連載もはじまった。 詩人・河津聖恵さんによる三島由紀夫文学と詩との関係への考察である。 かねてより三島文学を詩人の立場で考えて見たいというお気持ちをうかがっていたので、お願いすることにした。河津さんには自由に大胆に語って貰いたいと思っている。 新連載ではないが、髙柳克弘さんによる「現代俳句ノート」が復活した。 新刊としてこれまでのものを一冊にした『現代俳句ノートー名句を味わう』の続編となり、「現代俳句ノート2」として引き継がれる。 第1回は「加藤楸邨」である。どんな楸邨論が展開されるか楽しみである。 新刊の『現代俳句ノートー名句を味わう』は、好評である。 本書より「林田紀音夫」について冒頭の部分をすこし紹介してみたい。 棚へ置く鋏あまりに見えすぎる (『風蝕』) 肺結核による病臥の日々、戦中の軍隊経験、戦後の貧困生活……青年期から人生の苦渋を舐め続けた林田紀音夫にとっては、季題趣味は、生活の現実とは乖離した思想に他ならなかった。無季俳句に行きついたのも道理。ドストエフスキーは小説『悪霊』の中で無神論者キリーロフの口を借りて「神が存在しないならば自分が神である」と言ったが、紀音夫は季題趣味の信仰を捨てて、他の誰にも書けない紀音夫自身の俳句を書いた。 十七音のあまりに片々たる言葉である俳句は、どこかに〝錨〟のように重さを持たないと頼りなく漂い出してしまう。そこで、さまざまな古典文学の凝縮ともいえる季語を〝錨〟とするわけだが、それを用いない林田の場合は、死というテーマそのものを〝錨〟とする。彼の作品は、一貫して死というものへの恐れや憧れを底流に持っている。 掲げた句では、物を切るための道具である「鋏」が、「あまりに見えすぎる」ということで、それが肉を切り裂き人に死を与える凶器にもなり得るという事実を、読み手にあらためて突きつけることになる。「棚へ置く」が、さりげないがよく効いている。いかにも生活感があるのだ。ふつうの生活を送っている大概の人にとっては、「棚に鋏が置かれていること」など何の変哲もないことだが、心が死に取りつかれた人間にとっては、おぞましい眺めに見える。 この後は、「仰臥漫録」の正岡子規へと話が言及していくのだが、そこで髙柳さんは、「命の重みすらも相対化する強靱なアイロニーの精神」にふれている。 ![]()
by fragie777
| 2024-07-12 18:50
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