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7月5日(土) 旧暦5月30日
へんな虫がいた。 調べたところ「ヨコヅナサシガメ」というらしい。 カメムシの仲間であるようだが、 「危険な虫」とも言われている。 どう危険なのか、人間をさして体液を吸うこともあると。 じいっと見れば、剣呑な感じもしてくる。 甲州街道を横切るため、信号待ちをしていたときのことだ。 一人の少女が自転車にのって、わたしの前を横切っていった。 長い髪をむぞうさに一つにしばって、腰高の自転車に前のめりになりながらさっそうと漕いでいく。 剥き出しの白い腕と、伸びやかな肢体、すべてがまぶしくて風と太陽に祝福されているようだった。 少女はどんな未来を生きていくのだろう。。 少女のまえにひろがっている限りない時間。 今日の毎日新聞の坪内稔典さんの「季語刻々」は、小見恭子句集『彩雲』より。 冷素麺会長は水流す役 小見恭子 この会長は、「やじられている感じ」と坪内さん。そして「やじられる会長ってとってもよい会長ではないか」と。 今日は、午前中から午後にかけてでかけており、仕事があまりできなかった。 暑い一日だった。 目下「ふらんす堂通信」に「わたしのプルースト」を連載されているフランス文学者の高遠弘美さんより、新刊のエッセイ集『楽しみと日々ー壺中天晴書架記』をいただいた。 高遠弘美著『楽しみと日々ー壺中天書架記』(法政大学出版局版) 定価7000円+税 870頁におよぶ大冊である。 作家の佐藤亜紀さんによる帯文を紹介したい。 着実に知識を積み重ね大きな業績を残す研究者は、多いとは言えないがいる。古典的な意味での文人と呼ぶべき人々も、今でもいる。ただ、同時にその両者であり、しかも大胆な冒険心や心の熱の軽妙な遊心を備えた人が、知と文の東西を自在に行き来しながら書き綴った文の数々をこれほどの濃密さで愉しむことができる幸福は滅多にはないものだと思う。 大冊ではあるが、美しい装訂によって瀟洒かつ慎ましいただずまいとなった。こういう本の姿は、わたしはとても好きである。 たっぷりと豊富な知がぎっしりつまっている一冊であるのに、押しつけがましさがなく、涼しげな一冊。 まず、本書より最初におかれた「プルーストと暮らす日々」より一節を抜粋して紹介したい。 文学はどこまでも人間的なものである。文明に対するさまざまな脅威に抗し、あまたの悲劇を乗り越えて連綿と書かれてきた。悪や頽廃を描こうと、そこに連ねられた言葉はどこか祈りに似ている。『失われた時を求めて』も例外ではない。一見遠い国の、私たちとは無縁の社会や人々を描いたかに見えて、じつは深く関わりうる作品なのだ。 好きな一節である。 東京新聞の7月4日づけの夕刊の「大波小波」で取り上げられている。 タイトルは「反時代的な美意識の極み」 抜粋して紹介したい。 高遠弘美は、むろん超一流のフランス文学者、翻訳家である。(略)だが、今般上梓されたエッセー集『楽しみと日々』によって瞠目すべき文芸評論家であることが明らかになった。仏文学を源流とし、古今東西の芸術についての該博な教養をもとに独自の美意識を披瀝する批評性は、石川淳から澁澤龍彦へと受け継がれた系譜の一端を担うものだ。(略)その高遠が、本書では、プルーストをはじめ、江戸文化、浄瑠璃の淵源から、愛する荷風、鏡花、百閒を経て、フランスの食文化、お風呂、ビデに至るまで、名人の講義のような切れ味の良さで縦横に語る。本を愛することは、生きる喜びの吐露なのだと感じ入った次第である。 さて、どこから読んでいこうか、とおもむろに頁を開けば、どの頁からも書物を愛する著者の美しい日本語でかかれたことばが立ち上がってくる。 どの頁においても著者の情熱の熱量はかわらないのである。常に熱い。。 個人的に興味をもった箇所を紹介しておきたい。 まだまだたくさんあるが、ともかくもおもわず眼にとまったところ。 「街区Ⅳ 親しき外国人街」の章(この章立ても心憎い)の最初の項、「称賛と同情ー名訳にみなぎる『愛』のかたちから、詩の訳についての麗しい紹介と考察である。 吉田健一の『シェイクスピア詩集』の訳について、そしてあの有名なソネット18番(わたしの大好きなヤツ)などに触れつつ、名訳についての考察を深めてゆく。とくに面白かったのは、ボードレールの『悪の華』のひときわ有名な『秋の歌」の最初の数行のさまざまな訳者による紹介である。永井荷風からはじまって、自身をふくめて13人の訳を紹介している。わたしの知っているところでは、堀口大学、鈴木信太郎、村上菊一郎、福永武彦、安藤元雄、阿部良雄、金子光晴、佐藤朔、吉田健一、そして高遠弘美。驚くのは同じフランス語の詩を訳しながら、かくも訳がさまざまであるということ、そして日本語のもつ豊かさと美しさだ。わたしは堀口大学と鈴木信太郎、村上菊一郎の訳をもっているはず。(村上菊一郎には、大学でランボーとボードレールを学んでいる(と言ってもわたしは不肖の学生)。緑色のベレー帽をかぶって、いつも二日酔いの状態のような先生だった。高遠さんも多分講義をうけたのでは、) 高遠さんは、この訳について、こんな風に記している。 「たわむれに私の勝手な選択で申し上げれば「秋の歌」に関する限り、採るべき訳は六種。すなわち、 正統的で覚えやすい文語訳の村上菊一郎訳、 原詩との距離の測り方が絶妙な口語訳の安藤元雄訳、 簡明でいながら奥行きのある佐藤朔訳、 何気ない訳しぶりなのに心に届く阿部良雄訳、 最初は馴染みにくいのに再読のたびに心奥へ響く福永武彦訳、 大胆な訳ながら決して忘れることのできない金子光晴訳 ということだろうか。」 なんともさまざまにして絶妙は味わい方がある。こんな風な分析のあとで、それぞれの訳を読み返してみるのも一興である。 いや自分はそうは思わないな、なんて読み進むのもたのしい。 わたしはどれもそれぞれ味わいのある訳であるとおもったけれど、翻訳ということではなく(原文を離れて)日本語の詩としてどれが好きかなんて思ってみてもいいんじゃない。などと。 明日は毎日新聞の読書欄で評されるということである。 楽しみだ。
by fragie777
| 2024-07-05 20:57
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