ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko

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私の俳句は生きる証ではなく生活そのものなのです。

6月27日(木)  旧暦5月22日



私の俳句は生きる証ではなく生活そのものなのです。_f0071480_18250193.jpg
飯能・名栗の夏。


汚してしまったわが白シャツ。
昨夜、家に帰って汚れ落としに挑戦してみた。
な、なんと、
落ちたのである。
99%ダメだろうと思っていたのだが、残りの1%に賭けた。
ふらんす堂スタッフの間では汚れを落とすと定評のある「ウタマロ石鹸」のおかげである。
よごれのあるところをそれはもうカタキをやっつけるがごとく、力一杯こするのである。
生半可ではだめ。
お臍に力をいれて、こうグイグイと。
それをくり返していくと、ふっと落ちたのである。
一瞬信じられないような思いがしたが、見事に落ちた。
さすが「ウタマロ石鹸」、
一家に一つ常備されたし。(まわし者じゃなくってよ)




今日の毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、大井恒行句集『水月伝』
より。

 流浪。反骨・異端・星雲・てんと虫    大井恒行

「流浪を詠んだ句」と坪内稔典さん。最後に「『てんと虫』を置いたところがいいなあ」とも。ほんとうに、そうですね。「てんと虫」この言葉の軽いやさしい響きもいいですね。大井恒行さんの心根を感じてしまいます。




新刊紹介をしたい。

後閑達雄句集『カーネーション』


私の俳句は生きる証ではなく生活そのものなのです。_f0071480_18252430.jpg
四六判ペーパーバックスタイル 126頁 三句組



後閑達雄(ごかん・たつお)さんの第1句集『卵』 、第2句集『母の手』につぐ、第3句集となる。後閑達雄さん(1969~)は、「椋」会員、俳人協会会員。序句を「椋」の石田郷子代表が寄せている。
句集『カーネーション』は、亡き母に捧げられたものである、そのような献辞はないが読んでいけばわかる。母へ思いにみちた句集である。第2句集『母の手』もまた、アルツハイマーが進行していく母を介護しながら、やがて一人暮らしをするようになった作者が母のために編んだ一冊なのである。そして第1句集『卵』の「あとがき」を読めば、後閑さんが鬱病でくるしんでいるとき、俳句を進めてくれたのが母だったこともわかる。母と子の強い結びつきが一環して詠まれている三冊の句集である。句集『カーネーション』を読めばわかるように、アルツハイマーの進行によって日々衰えていく母を介護し見守る作者その人もまた健康体ではなく医者通いの薬漬けの日々である。そして作者は孤独だ。ある意味見方によっては悲惨ともいえるような日々なのかもしれない。しかし、この句集の世界は明るい。不思議だ。

 カーネーション母起さずに帰りけり
 カーネーション母に抱きしめられしこと

本句集にあるカーネーションの句を二句紹介した。第2句集『母の手』にもカーネーションの句はある。

 母に腕噛まれてしまふカーネーション

カーネーションは作者にとって「母そのもの」なのだ。母と子の緊密な結びつきの世界が俳句によって展開していく。これらの句の内容を散文で表現されたらその濃密な感情に息苦しさをおぼえてしまうかもしれないが、俳句に詠まれるとあっけらかんとして嫌味なく読み手のこころにおさまる。しかし、詠まれている世界は限りなく悲しい。この明るい悲しみにみちたしかし爽やかでさえある世界に魅了されながらわたしたちは読み進んでいく。

本句集の担当はPさん。
「俳句という形式によって抑制された悲しみが、心に響きます」とPさん。

 ひとつづつ持ち上げて捥ぐ林檎かな
 雪もよひ悲しい時に飲む薬
 栗ごはん炊きふさはしく暮らしけり
 春の灯にうすくなりたるお母さん
 夜濯や来世も母を介護せむ


 雪もよひ悲しい時に飲む薬

本句集においては、薬の句はよく登場する。作者にとって投薬は日課である。多分尋常でないほどの薬の日々だ。〈蜩や劇薬とある処方箋〉〈新月や安定剤を六種類〉〈新しい薬を飲みて長き梅雨〉〈朝寝して朝の薬も昼に飲む〉。掲句は、心の病のために処方されたものなんだろうか。雲が垂れ込めて薄暗い空、気持ちはいっそう沈んでくる。そんな時のためにも薬は処方されている。この句が読者のこころを落ち着かなくさせるのは、「悲しい」という生な言葉が使われていながら、読み手の共感をシャットアウトさせてしまうことだ。「悲しい」というある意味誰でも日常的に経験する感情を共有させることなく、その「悲しい」という感情にも薬が処方されているということ、それをあっけらかんと言い放つ作者がいること、そこで読み手は悲しみを共有できずに拒否されてしまう。そしてその悲しみを薬で克服する、それもよくある日常として淡々と受け入れている作者がいるということに、読者はえもいえぬ悲しみを覚えるのだ。悲しみは作者にとって非日常ではなく、日常である。その日常を現実のまま詠むことによって、読み手のなかにあたらしい感情を呼び起こす。ほかの薬の句にしても作者は日常の事実だけを俳句で詠む。そんな風にしてこの句集にこめられた悲しみはあっけらかんと俳句で詠まれていく。だから悲しい。〈ケロちやんの薬箱より風邪薬〉という句もあって、ホッとする。

 栗ごはん炊きふさはしく暮らしけり

わたしもこの句はすきである。この「ふさはしく暮らしけり」とはいったいどんな暮らしが作者にふさわしいとおもっているのだろう。具体的な説明はない。わかるのは「栗ごはん」を炊いたということだろう。この「ふさはしく」という措辞がとても魅力的だ。自身で炊いた「栗ごはん」を食べながら、充足している人物がみえてくる。つまりは自身にふさわしく暮らしているという、その充足感か。ささやかな暮らしのなかで「栗ごはん」が耀いている。

 春の灯にうすくなりたるお母さん

句集の後半におかれた 死んでゆく母を看取っていく時の一句だ。母は作者にとって、絶対的といってもいいほどの存在だった。ある意味この世において心を通わすことのできる唯一無二の存在だった。アルツハイマーになって大方のことを忘れていく母であっても、母に腕をかまれることは喜びであり、見舞いに行くと作者の貌をペロペロとなめたという。そういう母の存在の手応えを「うすくなりたる」と表現した。作者の痛いほどの実感だ。〈母は逝く桜がすべて散る前に〉〈耳の骨きれいに残り遠蛙〉という句がつづく。〈手を挙げて届くはずなき春の空〉この「空」はきっと母のいる「空」だ。

 ぶらんこの白い老人ホームかな

やや、コワイ一句だ。しかし惹かれる一句だ。老人ホームにあるブランコ。このブランコは子どもの遊具ではない。老人たちが乗るブランコであり、しかも白く塗られているという。あかるいモノトーンのようなそしてさびしい風景、老人たちも互いに背中をおしあって、乗るのだろうか。それとも意味もなくおかれたブランコなのだろうか。人はのることもなく、白きまま揺れるブランコ。非現実性をおびたブランコであっても、この老人ホームを象徴するような白いブランコ。この老人ホームをかたるとき、人は「ああ、あの白いブランコのあるホームね」などといったりするためのブランコか。「ぶらんこの白い」という措辞が老人ホームを決定づけている。白いブランコのあ老人ホームか、、、入りたいかなあ。。。

 一生を働かず死ぬ桃の花

どきりとした一句だ。病気で職につくこともない自身のことを詠んだのか。これも感情をまじえずに詠んでいるが、悲しみや怒りややるせなさといった複雑な感情がないまぜになって見えてくる。居直っているわけではなく、ある理不尽さに耐えているようにも思える。「桃の花」の明るさが救いだ。上5中7の宿命を受け止められるのは「桃の花」だけかもしれない。句集のおしまいの方におかれた一句である。作者の無念さをおもって悲しくなってくる。



校正スタッフのみおさんは、「〈想像のつく晩年や鰯雲〉(切ないようにも、淡々と受け止めているようにも感じられます)
おなじく幸香さん 「〈蝉よりも低き所に蝉の殻〉今の高さとの隔たりに蝉の懸命さを感じます」



第二句集上梓後、母が亡くなりました。母は寝たきりで、何の反応もありませんでした。介護士さんや私以外の家族の前ではそうでしたが、私が面会に行き「母ちゃん来たよ」と言うと顔をしわくちゃにして笑うのです。母はちゃんとわかっていたのです。最後の日は母の部屋に泊まり、深夜一時半頃亡くなるのを見届けました。母は私に俳句を教えてくれました。この句集を母に報告したいと思います。

「あとがき」を抜粋して紹介した。 


句集『カーネーション』の装画は、今回もつげ忠男さん。
つげ忠男さんは、つげ義春の弟さんだ。


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装画がカーネーションでないのがいい。


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扉。


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序句の頁。

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 さみどりのカーネーションは君の花   石田郷子


石田郷子代表の序句である。

「さみどりのカーネーション」、すてきだ。
この世にたった一本のカーネーションである。
まさに後閑達雄さんにふさわしい特別なカーネーション。
爽やかにすっくと世界に立つさみどりのカーネーションだ。




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後閑達雄さんの既刊句集。
装画はすべて、つげ忠男氏による。


 冬空へたとへばこんなラヴソング     句集『卵』

 セーターの背中つまんで別れけり     句集『母の手』



ご上梓後のおもいをうかがった。

アパートの3階に住む私にも階段を上がる宅配便の人の息づかいが聞こえてくる程、
200冊弱の句集が届く。今日は納品の日。何度体験してもうれしいです。
第三句集『カーネーション』は母が寝たきりになり、亡くなった前後のことを詠んでいます。
今回も自分を中心に母のことを、身のまわりのことを詠みました。
今回の句集には入っていませんが、今年は父も亡くなりました。
これからは母や父の句は過去形で思い出の句になります。


お父さまが亡くなったときのことは電話でお話してくださった。
病身でありながら、いろいろとたいへんであったご様子だ。
しかし、語り口は淡々として明るい。
ツライことなどをすべて飄々と引き受けていこうとされているようだ。



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後閑達雄さん。



母や父への感謝を忘れずに、ひたむきになにげなく深い類想のない俳句を詠んでいきたいと思います。
――未完の美しさ、曲がった心から伸びるまっすぐな思い――この二つを大切にしたいです。
――わかりやすくて私がそこにいる――そんな俳句を詠んでいきたいです。
私の俳句は生きる証ではなく生活そのものなのです。




 涼風が母の空より吹いて来る      後閑達雄



手がとどかなかった春の空でしたが、いまは涼風が吹いてくる「母の空」となったのですね。
後閑達雄さま。






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by fragie777 | 2024-06-27 21:55 | Comments(0)


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