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6月18日(水) 旧暦5月13日
白紫陽花。 東京は昨夜から雨がふりだして、今朝からずっと降りつづいている。 かなりの降雨量である。 そんな中、わたしは10数個におよぶ燃えるゴミを出した。 家のなかに置ききれず、家裏に山積みしておいたものを傘をさしなながら家の塀にそってずらりと並べた。 こんなに、はたして持っていってくれるだろうか。。 心配だったが、家をでるときにはすべてが跡形もなく姿を消していた。 ヨッシャー! わたしはアクセルを思いっきり踏んだ。 しかし、ながらではある。 まだ、燃えないゴミの10数個の山、そして部屋中をしめている粗大ゴミの山、プラスチックゴミ等々、 つまりわたしは今ゴミの山の中で生活をしているのである。(自慢にはならないわね) 予約受付中。 四六判ソフトカバー装 定価2800円+税 296頁 見本ができあがってきたので、少し紹介をしておきたい。 「ふらんす堂通信」に長い期間にわたって、髙柳克弘さんが連載されたものを1冊にまとめたものである。26人の俳人について書かれているが、久保田万太郎については、「三田文学」に寄稿したものを加えたものである。 本書は、名句の味わい方のたのしい手引き書でもある。 「はじめに」には宮澤賢治の童話集の『注文の多い料理店』引きながらこんな風にはじまる。。 宮沢賢治が童話集『注文の多い料理店』の序文に掲げている言葉が好きだ。 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。 物語作りについての賢治の言葉は、俳句作りにも当てはまる。自分の発想や表現には限界があり、その枠内で作っていると、行き詰まってしまう。こんなふうに、風通しのよい外で作られた句を、詠みたいものだ。また、作られた物語について、「わたくしには、そのみわけがよくつきません」と言っているのにも、深く頷かされる。作品の価値を判断するのは、作り手ではなくて、受け手であるというところも、俳句と同じだ。もっとも、作り手としては、受け手に面白がってもらいたい、あるいは受け手のためになるものであってほしいと願うものだ。 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。 賢治はここで、物語を「たべもの」にたとえる。しかも、「すきとおったほんとうのたべもの」であってほしいと願う。きっと、俳句においても、こうしたものが名句と呼ばれるのだろう。まじりものがなくて、心にすっと染み渡っていくような句のことを。 ただ、物語と俳句で異なるのは、俳句には「食べ方」があるということ。物語は、だれに導かれなくても、味わうことができる。俳句は、そうはいかない。(略) 現代の名句を読んでいくこの連載も、「会食」の一つの形と思ってもらえれば幸いである。はじめるにあたって、ホストである私はとりあえず、テーブルのセットを終えている。すでに、卓上には、たくさんの皿が並んで、蓋を取られるのを待っている。堅苦しい上着や帽子は、脇に置いて、テーブルの向こう側に、座ってみてほしい。私の提案する「食べ方」が、「すきとおったほんとうのたべもの」を、濁してしまわないことを祈りながら、一つずつ蓋を開けていきたい。 本書は、俳句をどんな風に味わうか、読者といっしょに楽しむ一書である。 「ふらんす堂通信」の発行は年4回。 髙柳克弘さんは、たっぷりの執筆時間をかけて、この連載に取り組んでくださったことがわかる、それは本書をつらぬくゆったりとした時間である。俳句ひとつひとつを楽しみ味わいながら、「俳句とは何か」ということに向き合っている。無理のない鑑賞でありながらそこには新しい鑑賞へと導くものがあり、読者を飽きさせない。長く書きたい俳人には紙数を費やして、好きなように書いている。ただし、短いからといって、短兵急なものでは決してない。 そのひとつ、「佐藤鬼房」についてふれたところ紹介してみたい。 蟾蜍長子家去る由もなし 草田男(『長子』) 蝦蟇よわれ混沌として存へん 鬼房(『半跏坐』) たとえば、同じヒキガエルを詠んだ句でも、草田男と鬼房では、叙法にあきらかな違いが出てくる。草田男は「蟾蜍」のあとにはっきりとした切れを入れている。それは「蟾蜍」と自分とを同一視しているようでありながら、「蟾蜍」をあくまで象徴として客体化することであり、むしろ自意識の強さの裏返しといえる。その強さが、「長子家去る由もなし」と言い切る決意の強さを語るのである。 対して鬼房は、「蝦蟇よ」と呼びかけて、自分と蝦蟇とを同じ地平に置く。「われ混沌」といって自分の内実を言っているようであって、蝦蟇の体にまとわりつくぐちゃぐちゃの泥も思わせる。ここでは、われと蝦蟇とが、まさに「混沌」として混ざり合っている。 「混沌」は鬼房のキーワードでもあるだろう。近代的自我に裏付けられた「写生」を超える、一つの答えを、鬼房は「混沌」の中に見出した。今後、何度も参照されるべき俳人である。 担当のPさんは、「飯田蛇笏」のある箇所に目がとまったという。 蛇笏の助詞一字も揺るがせにしない意志については、こんなエピソードがある。中川宋淵が入門を願い出に訪ねてきた際、蛇笏にこれまでの作を示すように言われて出したのが、 秋晴れや火口へ落ちる砂の音 という句であった。すると蛇笏は「その句は、火口へ、ではいけない。火口を、としなさい」と即座に指摘したという(『飯田龍太全集 第七巻 俳論・俳話Ⅰ』)。この例でも「へ」と「を」では、句の価値に大きな差が出る。「『へ』では淡々とした描写になりますが、『を』となると、砂と一体になって作者の身も心も落ちていくような、一句の迫力がぐんと深まる」という龍太の評のとおりだ。 飯田蛇笏については、たっぷりと紙数を費やしている。 それでは、若い俳人たちに人気のある「波多野爽波」については、どうか。 昔、若い詩人たちと行っていた勉強会で、波多野爽波を取り上げたときに、 真白な大きな電気冷蔵庫 (『鋪道の花』時代) という句を、「これは詩ではない」と正面から言った詩人がいた。この句を「ばかばかしい面白さがある」などとしたり顔に解説していた私は、ぐっと詰まってしまった。確かに詩かと問われれば、そうともいえない。いや、そもそも詩とは何なのか? 俳句は詩なのか? さまざまな問いが頭をめぐり、彼に答えることができなかった。 爽波の句はそんなふうに、俳句とは何か、詩とは何かを、読む人に考えさせる。 という導入部からはじまり、波多野爽波の俳句の魅力について鑑賞をしていく。そして、鑑賞の最後にこんな一節を加えている。 最後に付け加えておきたいのは、爽波の中に、こうした〝俳句でしかない俳句〟〝純粋な俳句〟を求める心のありながら、一方で、美意識の高く、詩的な句も少なくないということだ。爽波の美意識は特に初期作品にあらわで、しだいに自身の方法論を確立するにあたって沈み込んでいったのだが、次のような句の輝きを爽波らしくないとして切り捨ててしまうのはいかにも惜しい。 桜貝長き翼の海の星 (『湯吞』) 「長き翼」とは、海の星の光の比喩である。朧がかった、じんわりとにじんだ光を思わせる。「ホトトギス」の俳人鈴木花蓑に「大いなる春日の翼垂れてあり」があるが、日の翼よりも星の翼の方がより作者の美意識の顕著な表現と言える。ラテン語のステラマリス(Stella Maris)、すなわち「海の星」がキリスト教における聖母を表すことも、この句が甘美な雰囲気をまとっている理由の一つだろう。夜の渚歩きをしつつ、聖母のふところに包まれているような、陶然とした気分に浸っているのだ。爽波の純粋さは、ときに私を怯ませる。美意識で濁ったこの句にこそ、親しみを感じてしまう。 「夏目漱石」の章などは、新刊の井上泰至著「夏目漱石の百句」などを思い起こしながら、興味深く読んだ。 どの章も髙柳克弘という俳人の俳句への愛情にみちたものとなっている。 俳句を読むことの楽しみをおしえてくれる一書である。 装釘は和兎さん。 装画はカラヴァッジオの『果物籠を持つ少年』より。 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオは、闇を美しく描いたバロック期のイタリアの画家である。
by fragie777
| 2024-06-18 19:19
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