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6月17日(月) 旧暦5月11日
じいっと動かない。 居心地がいいのかすこしも動かない。 葉の上にやすらいでいる。 葉っぱの上ってふかふかしてそう。 色もきれいだ。 先週の9日づけの朝日新聞のコラム「うたをよむ」で高山れおなさんが「硯友社文庫のこと」と題して文章を寄せている。わたしは高山れおな著『尾崎紅葉の百句」を思い起こしながら興味深く拝読した。 昨年、和洋九段女子中学校高等学校の一室に「硯友社文庫」が開設されたことを紹介しつつ。その展示について触れている。 (略)目玉は、硯友社の領袖・尾崎紅葉の通夜に際し、鏑木清方ら所縁の画家たちが寄書した《尾崎家通夜記念》、そして紅葉死去の8日前(1903年10月20日)の夜の様子を描いた《十千萬堂(とちまんどう)病室俯瞰之図(ふかんのず)》という二つの画巻だ。(十千堂は紅葉の別号)。実況の生々しさと俳画風の軽妙さを併せ持つ後者の絵は、晩年の紅葉と親しかった斎藤松洲(しょうしゅう)の筆。 と記し、その目玉となるものについて紹介をしている。そして、紅葉の俳句の弟子として泉鏡花と徳田秋声の句を一句ずつ挙げている。 このコラムに関連するものとして、「じつは勤めの方で、添付のような記事を作っております(芸術新潮5月号)。」という高山れおなさんからのメールとともにこの画を詳細に紹介している記事を送ってくださった。紅葉の臨終のときの様子である。 タイトルは「尾崎紅葉の病室を描いた俯瞰実況メタ俳画」。そして「雨音静かな秋の夜長、早すぎる死を目前にした明治の文豪と友人・弟子たちに流れる時間……。」 わたしはたいへん興味深く読んだ。 大切な人間がいままさに死んでいこうとしているその場にいるわけだが、さびしい、かなしいという感情を上回るものがそこにある。 不思議だ。 それについて、こんな風に書かれている。 和洋女子大学名誉教授で硯友社文庫の名誉館長の木谷喜美枝氏は、集い、遊びながら新時代の文学を切り開いた、硯友社の若き文士たちの熱気を感じてほしいと語る。なるほど《十千萬堂病室俯瞰之図》にして、悲しい挫折の記録でありながら決して暗くはない。そこには明治の活力が、静かに息づいているのである。 そうか、「明治の活力」かとわたしは得心したのだった。それは「集い、遊びながら新時代の文学を切り開いた」力なのかと。 「斎藤松洲の絵は、実際のところ一見の価値ありです。」と高山さんからのメールにあって、わたしは「明治の活力」にふれに行こうかと思っている。 興味のある方は、 共同通信発の新聞記事を抜粋して紹介したい。 浅川芳直さんによる「俳壇時評」。タイトルは「近年の若手は早熟傾向」とある。 まず若い俳人の句集三冊をとりあげ、「技も含め『勝負』に出た意欲作ぞろいだ」と。 1979年生まれの常原拓の「王国の名」(青磁社)は、季題をラッピングにする技で魅せる。俳句という箱の中に何を詰め合わせるか、センスが抜群だ。〈川涸れてちひさきものの声のして〉〈大粒の雨降りはじむ虚子忌かな〉〈さみだれに橋の名ひとつ忘れけり〉 96年生まれの鈴木総史の「氷湖いま」(ふらんす堂)は、二面性の発見が一つの型。〈陽炎より特急鈍く来たりけり〉〈森は陽をまづしく宿し鳥の恋〉光の中の重さや翳り。〈まぶしくてうらやましくて風車〉。景から叫びが露出する。 90年生まれの黒岩徳将の「渦」(港の人)は、〈剃刀がひきかへす喉揚羽蝶〉〈餅の杵振り上ぐるたび口開く〉など身体感覚で勝負するが、根底にある情念が作品を濃厚にしている。〈書く前の手紙つめたし夕桜〉。季題の質感ににじむ人恋しさ。 そしてこの「勝負に出た」3句集以外に、もう一冊句集を紹介している。 では、坪内稔典の第13句集「リスボンの窓」(ふらんす堂)はどうか。〈ついさっきホタルブクロを出た人か〉〈ピカチュウとずっと友だち鳳仙花〉。一見若いが、これはやばり長年口誦性(口馴染みの良さ)と片言性(意味伝達の不完全さ)を攻めてきた大家による練り上げられたお家芸。 と記して、「ベテランにしかできない「勝負」もまた魅力的」と記している。 気合いの入った若手3句集と、一見肩のちからを抜いたようにみせる老練な句集。しかし、俳句という器はなんと広やかで奥行きのある器なんだろうって、改めて思った次第だ。 余計なことながら、浅川さんが評で坪内さんのことを「大家」と書いているけど、坪内さん、ちょっと居心地わるそうに苦笑いをされているかも。 とすると、「老練」もなんか違うかも。。。な。
by fragie777
| 2024-06-17 18:51
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