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6月4日(火) 旧暦4月28日
泰山木の花。 泰山木の花をながめながら、ことしは朴の花の咲くのに立ち会えなかったな……と思った。 ![]() すでに注文がいろいろと入っており、手応えの良さを感じる。 秋尾敏著『河東碧梧桐の百句』に引きつづきの刊行となったのが、偶然であるのだが、併せ読んでもいい二冊である。どちらも子規、虚子とふかい繋がりのある人物である。 が、人気のあるのは夏目漱石である。 明治の文豪としていまでもよく読まれている小説家だ。 その漱石の俳句とはいかなるものか。 執筆者の井上泰至さんは、小説家夏目漱石にとって、俳句がいかなるものであったか、そこに焦点をあてながら、漱石の俳句を読み解いていく。 わたしはこの一冊を読んで、漱石にとっての俳句がしめる大きさに驚くともに、俳句という定型詩への思いをあらたにしたのだった。 井上泰至さんは、本著の「はじめに」でこう書く。 〔略)我々の前にある漱石俳句から、彼の心を彩ってきた情景を選んでみた。漱石の「体温」が立ち上がってくるように。短気な漱石、権威が大嫌いな漱石、愛に飢えた漱石、友を大切にした漱石、ユーモアを愛した漱石。そして何より、心の救いを俳句に求めた漱石。句は年代順に、同じ年の句はおおむね季の順に配した。 漱石の撮ったスナップショット百枚に、簡単なキャプションを付けてみたらこうなる、と想像してみてほしい。あの漱石が、俳句という極小の器に、幸福を見いだし、そこに浸っていたことが、その息づかいから伝わってくるはずだ。 井上泰至さんが書かれているように、本著はとても読みやすい。 いくつか鑑賞を紹介してみたい。 聞かふとて誰も待たぬに時鳥(ほととぎす) 明治二二年 漱石を俳句に誘ったのは子規だった。喀血をして早死にを覚悟した彼に、四日後漱石は、「小にしては御母堂のため、大にしては国家のため自愛せられん事こそ望ましく」と手紙で激励し、この句を贈った。死出の鳥でもあった時鳥の声など誰も待たぬのに、と詠んだ後、自分の兄も結核を患っていることを告白し、「かく時鳥が多くてはさすが風流の某も閉口の外なし。呵々」と笑って見せる。親孝行と国家への貢献を以て励ますあたり、明治のエリートの「志」が見て取れる。俳句は交際のツールでもあり、近代文学の主役の二人を繋いでいく。 鳴くならば満月になけほとゝぎす 明治二五年 子規は授業に出ない。大学を落第することが決まった。退学を考えた子規に、授業がつまらなくても卒業するのが「上分別」だと手紙を送り、この句を添えた。「満月」は卒業の意。〈ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる〉と『百人一首』にあるように、不如は待たせる鳥で、「俺は待っているぞ」という含意もある。子規も漱石の勧めで心理学の授業だけは写生理論の参考になったから、ノートを真面目にとっていたが、自分には時間がないと見切った彼は、結局新聞記者になって俳句革新という紙つぶてを文壇に投げつけるに至る。 読んでいくと漱石にまつわるエピソードがふんだんにあり、全部を紹介してしまいたくなる。 まず前半の数句を紹介した。 時鳥厠半ばに出かねたり 明治四〇年 西園寺公望は総理になるや、私邸に文学者を広く招待した。それを漱石は事もあろうに、この句を添えて断った。トイレで用を足しており、あしからず、とは何とも。朝日新聞に入社し、『虞美人草』を執筆中だったので、「東京朝日新聞」は、執筆多忙が理由と報じた。この企画の発案者竹越与三郎が主筆を務める読売からの誘いを断っていた事情もある。文学博士を受けることも、政府の文芸委員制度にも抗った。「時鳥」の声は聴きたいけれど、と一応は相手を立てているが、幕府討伐軍の将であった西園寺への気持ちは単純ではなかったろう。 秋立つや一巻の書の読み残し 大正五年 死の三か月前、芥川龍之介の小説『芋粥』の出来を手紙で批評した。描写が細かくくだくだしいとも指摘する。「僕自身を標準にする訳ではありません。自分の事は棚へ上げて君のために(未来の)一言するのです」と、この次代を背負う作家のため、激励もした。もう自分には時間が残されてはいない。「春秋」に富む君の活躍は目に浮かぶが、それを見ることもかなわない。そんな心中を隠したのか、手紙の中では、上手く詠んだつもりで、即興で書いて、消せなくなった、と句中の侘しさを取り払う、ユーモアのある気遣いを忘れていない。 解説では、漱石にとっての俳句とは何であったかに迫る。 漱石は小説界で華々しい活躍をし、たちまち一家をなした。作家となって多忙を極めてから、漱石にとって俳句とは何であったのかと言えば、それは桎梏から逃れて、日常を心の友に伝えるツールであった、と自ら語っている。(略) 俳句という小さくて「無作法」な「詩形」こそが、人間の幸福をもたらすのに恰好のもので、これを愛すると告白している。(略) 倒れてからの漱石は、自分の使命と考える小説を書き続けながら、余命の長くないことを覚悟し、俳句に再び戻ってくる。残りの「生」を惜しむように、俳句の世界に遊んだのである。(略) 子規無しに近代俳句はなく、その子規と肝胆相照らした漱石無しに日本の近代小説もない。その子規から感化を受けた漱石が、俳句を生きることで、「幸福」を得ていた事実とその重みを、俳句に関わる人は無論、俳句を知らない漱石ファンも、忘れてはならないと思うのである。 「手紙」や「日記」といった「日常」の人々との親和という小さな営みを礎に、地に足のついた文学世界を紡いでいった子規・漱石・虚子の存は、大人(たいじん)の風格を以て、性急な欧化を焦る動きへの批判者の位置を占めていたことに気づかされるはずである。 わずかな抜粋にとどめるが、解説も一気に読んでしまう面白さである。 漱石ファンのみならず、俳句に興味のある人もない人も愉しく読める1冊である。 「河東碧梧桐の百句」と是非併せ読んでほしい。 わたしはいま、『虚子自伝』〔岩波文庫)を読んでいるのだが、そこにも二人はもちろん登場する。 これもとても読みやすい。 しかし、文章の背後をながれるゆったりとした気息にすぐに眠くなってしまう。 そのことを今日お目にかかった岸本尚毅さんにつたえたところ、岸本さん、「それはいいですね!」と大笑いをされていた。。 『夏目漱石の百句』今日から販売しております。 今日は、東京・虎の門にある「オークラ東京」で、「天為」創刊400号記念祝賀会があって、スタッフのPさんとおもむく。 まず最初に、有馬朗人主宰が令和2年12月6日に亡くなりました。 有馬先生が亡くなられてからの、「天為」400号が令和4年12月号でした。 「天為」の巻頭が有馬ひろ子先生の弔辞となってしまいました。 今回の400号記念祝賀会は複雑な思いがありますが、有馬先生の追悼の思いを皆さんと共有したいと思います。 『有馬朗人全句集』が完成いたしました。 これが残された我々の最大の仕事でありました。 ようやく4年弱の年月をかけて「天為」の同人全員の祈るような努力の結果、皆様のお手元に届くことになりました。 私はこの全句集を見たとたんに涙が出ました。 皆様の祈りが形になってまるで聖書のような全句集ができあがってきました。 この全句集の命は、有馬先生の作品もさることながら、栞を書いていただいた皆様、また解題を書いていただいた天為の同人の方々によります。 既刊10冊の句集を持っているのと、この全句集を持っているのとでは根本的な違いがあります。この全句集に込められた作品、個性、それにかけられた膨大な時間。天為の同人たちの熱意と信念と祈りがこもっております。 この句集を作ってくださった角川書店の石川編集長は、編集会議からずっと参加していただき、巻末の索引を作るために大変な時間を費やしてくださいました。 感謝しております。 同人総会は集団指導体制をとっています。 有馬先生は生前「君臨すれど統治せず」といって、運営を「天為運営会」に任せておられました。 その組織があらばこそ、「天為」は俳壇の中では空前絶後の集団指導体制という盤石の体制で行ってきました。 昨日は先生が亡くなってからの3年半の現状と将来への展望、さらに同人の方々からの忌憚ない意見が出されるという同人総会が行われました。結論から申し上げると「天為」の同人たちは引きつづき「天為」の発展に全力を尽くすんだということを、日原編集顧問が方針を示されました。 これからも「天為」へのご支援をよろしくお願いしたいと思います。 ご挨拶のなかにあった『有馬朗人全句集』(角川書店刊) 美しい一冊である。 栞を書かれているのは、堀切実、高橋睦郎、高野ムツオ、星野髙士、小林恭二、神野紗希の各氏。 今日の会の来賓はおもにこの全句集に栞文をよせた方々とメディア関係者で、「天為」の会員の皆さんがたくさんあつまったお祝いの会であった。 集合写真。 「天為」の皆さま、創刊400号おめでとうございます。 こころよりお祝いを申し上げます。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
by fragie777
| 2024-06-04 20:16
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