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5月27日(月) 旧暦4月20日
芹葉飛燕草(セリバヒエンソウ) 名栗の山道に咲いていた。 葉が芹に似ていること、花姿が燕の飛ぶ姿に似ていることに由来。明治時代に日本に渡来したとある。 秋尾敏著『河東碧梧桐の百句』が出来上がる。 予定よりすこし時間がかかってしまった。 執筆者の秋尾敏さんが、力を尽くして取り組まれた1冊である。 すこし紹介をしていきたい。 まず、第一句目。 手負猪萩に息つく野分かな 明治二十四年 正岡子規は、碧梧桐が明治二十三年頃に俳句を知り、翌年から作句を始めたと書いているが、実際は二十三年から作句している。だがそれらは習作と言うべきで、この句辺りから完成度が高まる。江戸の発句を熱心に学んだ結果だろう。子規一門が蕪村に夢中になるのはもう少し後のことだが、蕪村句の物語性さえ漂わせている。「手負猪」「萩」「野分」と季語が並ぶが、江戸期の発句なら珍しいことではない。十八歳にして古典句の骨格を捉え得た人だからこそ、その後の展開がとめどなく進んでいったのだろう。なお、「息つぐ」と読む資料もある。 カバーの装画となった「猪」である。 「手負猪」とあるが、この猪はよく見ると不敵な顔をしている。虚子との関係でやや敗北感のある碧梧桐であり、その自由律の俳句によって読者から敬遠されてしまうのだが、本著は河東碧梧桐の俳人としての存在の意義に迫ったものであるので、「不敵」な存在感のある猪の登場となった。 はらはらと天の川より散る蛍 明治二十五年 蛍が天の川から散ってきたと見た句。降ると言わ「散る」として実感が生まれた。「散る蛍」という言い方はあるが、それは互いに離れること。この句は天の川から散ると言って斬新。「はらはら」もおもしろい。『子規之第一歩』(俳画堂・大正14年)に記録されの評価は「天の巻」だが、どの句集にも採られていない。しかし、若き碧梧桐の生き生きとした感性が感じ取れる佳句で、後の自己表現を目指した〈新傾向俳句〉(巻末解説参照)は、こうした独自の感性から生まれたに違いない。このときの号は「女月」。如月生まれなのである。 芭蕉忌や淋しいほどにうづくまる 明治三十一年 「芭蕉」あるいは「芭蕉忌」のイメージから連想した七五と思われるが、碧梧桐自身の心情が重なっているのも当然のことである。五月に京華日報社に入社し、社会部長となった。十月に「ホトトギス」が東京に移り、前年に結婚した虚子がその編集発行を請け負うことになるのだが、その虚子の妻には碧梧桐も思いを寄せていたのである。互いに自立の道を歩み出した淋しさもあったであろう。前年までは古典句の様式を踏襲した安定感のある句が多いが、この年の句に完成度の高いものは少ない。自己表現への一歩を踏み出した年と考えてよいだろう。 主に前半に紹介されている句を紹介した。巻末の「言語の日常性を超えて」の解説は、碧梧桐入門としてまことによくまとめられたものとなっている。虚子との関係もわかりやすく、また、碧梧桐がやがて自由律俳句へとかたむいていくその必然性をその根拠となる思想に言及しながら、語っている。 一部を抜粋して紹介したい。 明治二十六年、虚子とともに京都の第三高等中学校に入学したが、国の方針で学科改編が行われて仙台の第二高等学校に編入。だが、管理的な校風になじめず、文学に生きる思いを抱いて中退し、東京の子規のもとに転がり込んだ。 二人はしばらく遊蕩生活を続けた。そのころの作風は、虚子が「新調」と称する革新的な句を試み、碧梧桐はむしろ古典的であった。(略) この頃、子規は文章の革新を思い立って、一門に〈写生文〉を書かせるようになるが、これが言文一致体の形成に大きな影響を与えることになる。 俳句における〈写生〉は、当時の俳句に横行していた〈月並〉の手法、すなわち手垢の付いた小細工を避けるための方法論であった。 それに対して〈写生文〉は、〈本当のことを自分の言葉で書き綴る〉というジャーナリストの文体の創出であった。碧梧桐は生涯、この写生文の精神を貫く。その意味で、碧梧桐もまた写生の人であり、それが碧梧桐を自然主義に導いていくことになる。(略) 碧梧桐の生々しい文体の根底にある〈本当のことを自分の言葉で書き綴る〉いう精神は、ジャーナリストの本分でもある。子規も碧梧桐も新聞記者なのである。碧梧桐は〈写生文〉を極め、言文一致の文体を世に広めて、新しい時代の事実を人々に伝えた。事実とは所与のものではなく、言葉で書き表されることによって、書き表されたように立ち現れるものなのである。碧梧桐の文体は新しい時代の事実を人々に伝えた。(略) 俳句においても、碧梧桐は〈写生文〉の精神を貫くようになる。それが〈新傾向俳句〉である。大正期には子規の言う作句法としての〈写生〉から離れ、また俳句の形式をも捨てて〈本当のことを自分の言葉で書き綴る〉という行為に徹するようになる。(略) 新傾向俳句は次第に衰微したと書く俳句史は多いが、新傾向俳句とは変化する俳句のことなのだから、自由律俳句や口語俳句、さらに新興俳句へと展開していくその後の俳句は皆、新傾向俳句の先に現れたと考えるべきである。 このへんでとどめておきたいが、本当によく考察された碧梧桐論なのである。多くの人に一読をおすすめしたい。 後半の句をすこし紹介しておきたい。 マストの上までは来る鷗の一つ眼の玉を見る 昭和二年 「マストの上までは来る」が、それ以上は近づかない「鷗の一つ」。その「眼の玉」を作者はのぞき込む。何を考えているのか、と。すると、その「鷗」もこちらの「眼の玉を見る」。何を考えているのか、と。初対面の知らぬものどうしが互いの距離を測り合う場面だが、なかなか健康的で前向きの世界観で描かれている。心を測りうなどという場面は病的になりがちなものだが、この句の景は違う。その健康的な世界観を作りだしている要因は「マスト」であろう。作者は、俳句でどこまで文学的世界を広げられるかに挑戦しているようである。 湯上りテンテン頭で念仏口ず(ママ)からよろぼひ 昭和四年 湯上がり機嫌で頭を叩き、念仏を唱えたらよろめいてしまった、と。しらふではなさそうだ。「伊予八幡浜」と前書き。これを読んだ当時の人たちの当惑が思われるが、喜ぶ読者がいたことも確か。昭和四年は不可解な年で、中国大陸に日本陸軍が入りはじめ、十月にはアメリカで大恐慌が勃発。一方、日本ではジャズが大流行して「東京行進曲」が発売され、阪急百貨店が開店。戦争や恐慌の足音が聞こえ始める中、狂乱の消費文化が花開いていた世相を思えば、「念仏」も「よろぼひ」も、まさにこの時代の本質を正しく受け止めた言葉であろう。 更に解説の巻末のことばを紹介しておきたい。 碧梧桐から見れば、俳句においても書においても、いわゆる〈巧い〉作品は、すべて〈月並〉だったに違いない。俳人は、一方に碧梧桐のその思いを警鐘のように鳴り響かせながら、自分の道を歩むしかない。 赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐 今日の讀賣新聞の新刊紹介に、『岡本眸全句集』がとりあげられている。 『岡本眸全句集』2018年に亡くなった俳人の4352句を収録する。「俳句は日記」を信条に、日常から人生の哀歓を詠んだ姿が浮かび上がる。〈佃煮の暗きを含み日のさかり〉 『岡本眸全句集』は、書店さんや読者の方からの問い合わせも多く、やはり待ち望まれていたものという手応えがある。 たくさんの人に読んでほしい1冊である。 新宿地下街の馬のポスターに魅了される。 立ち止まらずに歩きながらカメラにおさめたので、スピード感がありません? 関係ないか。。。。
by fragie777
| 2024-05-27 19:33
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