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5月24日(金) 旧暦4月17日
道ばたに夢見るように咲いていた鬼灯の花。 目下YouTubeで、隼の子育てを日々みている。 あるいは、このブログを読んでおられる方もご覧になっているかもしれない。 ただ、鷲や鷹の子育てのYouTubeはたくさんある。 わたしがもっぱら見ているのは、ドイツ(多分)から発信されているものだ。 四羽の子どもを隼の両親が育てているのであるが、 その四羽のうち一羽のみが異常に小さいのである。 グレープフルーツと梅くらいの違いなのである。 生きられるだろうかと日々、ドキドキしながら見ているのだが、 なんとか懸命に頑張っている。 救いなのは、ほかの三羽がこの小さい子をいじめないこと、 けっこうおっとりと共存している。いまのところはであるが。 ああ、もうダメからもしれない、見るのはやめようとおもいつつ、 気になってしまって、見てしまう。 ライブ発信もやっているようだが、それを見つづけているほどヒマではないし、 仕事の手がとまってしまうのはマズイ。 ああ、また見たくなってしまった。 けど、ガマンする。。。 新刊紹介をしたい。 著者の小見恭子(おみ・やすこ)さんは、1943年神奈川県横浜うまれ、現在は千葉県佐倉市在住。2005年俳誌「いには」(村上喜代子主宰)入会、2011年「いには」同人、2020年「いには」同人賞。現在俳人協会会員、千葉県俳句作家協会会員、四街道カルチェアー講師。本句集は第1句集であり、2005年から2023年までの作品を収録、「いには」の村上喜代子主宰が序文を寄せている。 序文を抜粋して紹介したい。 この句集『彩雲』はそのほぼ二十年間の作品から選出したものである。まさに彼女の歩みと共にあり、その成長過程をまざまざと実感することが出来、私にとって感慨深いものがある。 白梅の飛んで星座の端にをり 辛夷咲き里山軽くなりにけり 巻頭二句、共に詩情がある。身辺の物から発して星座へと心を遊ばせ、白い羽のような辛夷に里山が浮き上がるようだ、と表現したところに詩人の感性が窺える。(略) 朴散つて彩雲放つ武甲山 令和五年夏、そよご同人会で行った秩父一泊練成会の帰りの貸切バスで見た彩雲である。私も同行したので綺麗な雲だなと思って見た記憶はあるが、疲れきっていてそれを句に詠もうとまでは思い至らなかった。彩雲は雲の一部が虹のように淡く輝いて見える現象で、瑞雲、紫雲などと呼ばれ吉兆の雲である。彼女はこの彩雲を見て、吟行して巡った秩父の神山が脳裏に現れ、この彩雲は武甲山が放ったものではないかと直感、この格調ある一句を授かった。句を授かるか否かはその対象と作者の心の交感に拠る。同じものを見て同じ行動を取っていても同じ句ができるわけでは決してない。この句はまさに詩の女神が降臨したかのような出会いの一句といえよう。この彩雲はさらに小見さんに句集上梓を決意させる力にもなったのである。 「朴散つて」の句は、句集名「彩雲」ともなった一句である。秩父への吟行で得た一句だ。わたしは郷里・秩父の武甲山が詠まれていることに驚き、そして嬉しく思った。武甲山は子どもの頃毎日みていた山であり、日々の爆破によって山容がいちじるく変わり、その無残さはいまは正視できないほどである。その武甲山がこのように詠まれるとは、なんとも嬉しいではないか。朴の花の散る勢いと美しい雲の空のかがやきと武甲山の威容。秩父へのすばらしい挨拶句である。小見さま、ありがとうございます。武甲山になりかわって御礼を申し上げます。と申し上げたい。 本句集の担当は、文己さん。好きな句をあげてもらった。 月仰ぐほどに春筍傾ぎけり 大西瓜ぽんと叩きて日の匂ひ 暖かしここへ座れと石凹む 人に会ふちよつと早めの更衣 種袋開くれば風の新しき 鴨泳ぎ水やはらかくなりにけり 暖かしここへ座れと石凹む なんともあったかそうな一句である。石に作者が招かれているのだ。それも大きな心地よい凹みをつくって。その凹みは日溜まりとなっていて、石も充分に温められていて、座るには恰好の場所である。この一句の魅力は中七下五のおもいきった擬人化による措辞にある。招くように石が凹んでいるのではなく、命令を発しているのである。石の前にたった人間のためにあたかも凹んでみせたかのような、凹み具合であり、そのときたしかに石の声を作者は聞いたのだ。そんな体験がゆるされるのも、ひとえにこの「暖かし」の季語による。それほど日差しが豊かであたたかであったのだ。石に招かれるなんてそうそうあることじゃない。作者はとくべつに選ばれたお人なのかもしれない。 放牧の馬に番号夏来る この一句、「夏来る」の季語によって俄然、放牧の馬たちが生き生きとみえてきた。何故だろう。それはすべての馬に番号がついている、ということにもよる。ただ放たれている馬たちではなく、そこに人為的行為が介在しているのだ。番号のついた馬たち。そしてその馬とともに働く人間たち。汗の労働がみえてくる。しかし放牧の馬という清々しさもある。番号をつけられた馬と人間とのつながり。人と馬の力強いいとなみにきっぱりと夏がやってきたのだ。 帰省子に改札口の狭きこと 帰省の子をはじめて駅まで迎えに行ったのだろうか。いまかいまかと改札のこちら側ですこし離れて待っている。おお、やって来た。なんとずいぶんと逞しくなっている。改札をとおるとき、改札がいっしゅん狭くなったように感じたのは、子どもがそれだけ大きくなったのだ。家をはなれる見送りのときは、改札は十分な広さだったのに。改札を出て来る子どもの姿をまぶしく見つめながら、その一瞬を一句にした。イ行の音が効果的にひびいて句をひきしめ、カ行によってリズミカルな軽快さが倦まれた。さりげない一句であるが、帰省子をむかえる親の感慨がよく伝わってくる一句だ。 ふらここや一人の時は腰を掛け 好きな一句である。これもさりげない句であるが、子どもにとって「ふらここ(ブランコ)」は漕ぐ任務(?)を課されるものだ。しかし、大人はどうだろう。それも一人でやってきた大人は。この一句に、わたしは思案することがあってふらここに腰をかけている大人の女性を思う。そう、星野立子の「鞦韆に腰かけて読む手紙かな」をすぐに思いうかべた。一人でだれにもじゃまされずにものをおもったり、手紙や本を読んだりするのに、だれもいないふらここほとよき場所はないかもしれない。あるいは、作者は、ときどきふらここに幼子をつれてやってくるのかもしれない。そして背中をそっとおしてやったりする。そんなふらここであるが、今日はだれもいずひっそりとしていて、作者もひとりである。招かれるように腰をかける。そして一人の時の時間をすごすのである。そんな状況でできた句かもしれない。思索的な女性の顔がみえてくる。〈ふらここに乗る子が欲しやみすゞの詩〉という句もあって、「ふらここ」に作者はいろいろな思いを寄せるのである。 擦れ違ふ人あぢさゐに濡れてをり 「あぢさゐ」をこんな風に詠んだということが面白い。「あぢさゐ」に濡れた人とは、紫陽花の咲きあふれるところをとおって存分に濡れてしまったの人のことだ。それほど紫陽花は水を含んでいたのだ。雨があがったあとの紫陽花なのか。人間の身体をこんな風に濡らすことができる花としたらそれは紫陽花の特権である。紫陽花だったら頷ける。すれ違いつつ、あるいはその紫陽花の水気を作者もかんじつつ、「紫陽花」の咲く季節への讃辞を惜しまない一句である。「あぢさゐに濡れて」とは、身体が濡れたことで浄化されたように思えてくる。その濡れた人も紫陽花のすがすがしい気配があって、わたしもこんな風に紫陽花に濡れてもみたい、そんな人ともすれちがってみたいと思った。「紫陽花」という季語をきわめて自然にはからいなく詠んでいるが、達者な一句であるとおもった。 ほかに、〈溥傑の詩読む水仙の匂ふ中〉〈初版本の福紙伸ばし風入るる〉〈ロシアもの長編小説黴臭し〉などの句もあって、本好きな知的な人間像がみえてくる。 校正スタッフのみおさんは、「〈あたたかや胡座の中に籠を編む〉が好きです。暮らしの中に手仕事が息づいている景に惹かれます。」 おなじく校正スタッフの幸香さんは、「〈朝刊の大きな見出し霜の声〉に特に惹かれました。大事件の見出しに接した時の身も心も凍える感覚を思い出しました。」 句集名の「彩雲」は秩父方面の一泊の練成会の時のものです。すべての行程を終えバスの中から見た雲の姿です。これが「彩雲」だと思いました。それは美しく、疲れた身を癒してくれました。このように皆さんと喜んだり、嘆いたりしてきたことは大切な糧となっています。 句集を出すということは大変勇気のいることでしたが、村上先生の力強いご指導のもと、そして先輩方の温かい励ましに支えられて纏めあげることができました。有難うございました。これを契機にさらに視野を広め、より俳句が楽しめるように精進して参りたいと思います。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 装釘は君嶋真理子さん。 「彩雲」のイメージをどう表すか。 そこに苦心したようである。 結果、とても美しい「彩雲」となった。 「赤くなりすぎてもいけない」 帯をとったところ。 表紙。 扉。 『彩雲』は「いには」と共に歩み育ってきた句集である。「いには二十周年」という記念すべき年に、嘉されて世に出る『彩雲』に心から拍手を送りたい。(村上喜代子・序) 句集上梓後のお気持ちをうかがった。 初めて句集を手にした時、これが自分の姿だと思いました。 そして今までの不安や緊張は何処か へ行ってしまいました。 後にも先にもたった一冊の句集ですが、自然と自分らしさが出てくるものだ と感じました。 一緒に学んできた仲間の皆さんも心待ちにして喜んでくださいました。 初めての ことばかりでしたが、順を追って導いて下さった方々に感謝申し上げます。 気づけば楽しい時間でした。 小見恭子さん。 ことしの1月25日のご来社のときに。 小見恭子さま、 ご上梓おめでとうとざいます。 また、「いには」20周年、おめでとうございます。 心よりお祝いを申し上げます。 沙羅一樹四方の新樹に交はらず 小見恭子 まもなく沙羅の咲く季節ですね。 沙羅の花は清浄無垢なおもむきがあり、その花びらの艶やかさにははっとさせられます。 とくべつな花かもしれません。 沙羅の花。
by fragie777
| 2024-05-24 19:10
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