カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
5月2日(木) 旧暦3月24日
「もうあとすこしで夏よ」ってカレンダーを見ながら言ったら、 「花粉が落ち着くと、夏ってわたしはおもってるんです。」ってスタッフの文己さん。 花粉アレギーに悩まされていたみなさま、良かったですね。 ふらんす堂へ行く路地。 左手の建物の2階がふらんす堂。 右手はレストラン中村のあとにできた建物。 いままでは黐の木が白い花をさかせて、そこに鳥たちがやってきていたのだけど、 あまりにもさっぱりとしてしまった。 真正面「日本酒の立ち飲み屋」さん。 夕方になると開店して、けっこういろんな人で賑わっている。 わたしはまだ一度も行ったことがないけれど。 で、 アメリカ国旗がかけてあるのが目にとまった。 ドア枠のブルーに響き合ってわるくない。 日本酒のお店に、なにゆえ、アメリカ国旗?って おもったけれど、まあ、それもいいんじゃない。 ここに日の丸国旗がかかってたら、ちょっとドキッとしてしまいそう。 新刊紹介をしたい。 著者の大井恒行(おおい・つねゆき)さんは、1948年山口県生まれ、「豈」「ことごと句」同人。本句集の略歴には記さてないが1999年にふらんす堂より刊行された『現代俳句文庫49大井恒行句集』によれば、高校3年生のときに地元の新聞への投句をしたことを契機に俳句をはじめる。1970年関西学生俳句連盟による「関俳連句集」創刊に参加、赤尾兜子主宰「渦」に投句、「俳句評論」句会に出席、澤好摩、横山康夫などを知る。久保澄夫等と俳句同人誌「獣園」に参加、その後一時句作を中断。1975年、坪内稔典編集「現代俳句」創刊号への執筆を機に再開。「黄金海岸」の大本義幸により摂津幸彦、藤原月彦、長岡裕一郎等に会う。1979年「未定」創刊に参加。1980年「豈」創刊に参加。1988年から5年間を「俳句空間」編集人。「豈」は発行人の一人である。句集に『秋ノ詩(うた)』『風の銀漢』がある。本句集は4冊めの句集となる。 集名は「水月伝」。この集名を聞いたとき、大井さんらしいっておもったのだが、どうしてそう思ったかというと、大井恒行さんは、剣術をやる人だということ、たぶん立派な〇〇流という流派に学んでおられるのではなかったかしら。そんな話を雑談をしながら伺ったような気がする。ちゃんと聞いておけばよかったのに。。ごめんなさいませ。 「水月伝」、、カッコいいネーミングである。担当のPさんによれば、このタイトルにこめたことは、「普通の生活をする」という意味らしい。それも大井恒行さんらしい。 「水月」をインターネット上でしらべたところ、「1水と月。2 水面に映る月影。3 人体の急所の一。みずおち。4 軍陣で、水と月が相対するように、両軍が接近してにらみ合うこと。」という四つの意味があって、どれも本句集「水月伝」はその意味を包括しているように思える。 本句集を手に取れば、大井恒行という人の清潔にして陰翳をともなったスマートさに相応しい表情をしているのではないだろうか。 ああ、大井さんらしい句集だ。 思わずそう叫んでしまった。 句集『水月伝』は、現代俳句文庫『大井恒行句集』(一九九九年一二月)以後、二〇〇〇年から二〇二三年に至る二三年間の作品から選びとった。 個別の句集としては三冊目だが、『大井恒行句集』には、第二句集『風の銀漢』(一九八五年)以降の作品を未刊句集として収載したので、実質的には第四句集にあたる。 「あとがき」のはじめを紹介した。 本句集は四つの章にわかれている。ローマ数字で記されているのであるが、編年体ではない。23年間の俳句を編集しなおして収録してある。Ⅰは、時代へのあるいは人間世界への批評性をもった俳句か。Ⅱは、大井恒行における「花鳥諷詠」か。Ⅲはこの23年間に逝きし人(敬愛する人や友人)への追悼、Ⅳは、人や事物や自然への挨拶句か。わたしはこんな風に括ってみたが、見当はずれだったらごめんなさい、大井さん。 担当のPさんは、好きな句をたくさんあげてきたのだが、そのうちのいくつかを紹介したい。 明るい尾花につながる星や黒い骨 猪飼野は風の径なり風の春 触れているこの世の手には地震の風 原子炉に咲く必ずの夏の花 叫びは立ちこめ土砂より速く飲み込む海 鳥かひかりか昼の木に移りたる 雨を掬いて水になりきる手のひらよ くるぶしを上げて見えざる春を踏む 原子炉に咲く必ずの夏の花 Ⅰの章の後半におかれていて、数ページにおよび震災と原発事故についての俳句が並んでいるうちの一句である。〈触れているこの世の手には地震の風〉はこの句のすこし前におかれている。〈ありがたき花鳥(かちょう)の道や核の塵〉という句もあって、「花鳥諷詠」の俳句への揶揄をこめた批判がある。Ⅰ章をまず読者は目にするわけだが、時代への歴史への社会への告発をこめた俳句からはじめることによって、俳人大井恒行は自身の寄って立つ場を読者に明らかにすることからはじめようとしたのではないか。掲句「必ずの」「の」は、人為への自然からの糾弾の「の」であり、この「の」が楔のようにこの一句に打ち込まれている。そしてこの「の」に作者の屈強な祈り心をわたしは思ったのだった。 雨を掬いて水になりきる手のひらよ この一句は、わたしも好きな句である。Ⅱの項にある。さきほど大井さんなりの「花鳥諷詠」と記したが、「ホトトギス」のように季題としての花鳥諷詠ではなく、作者をめぐる万物としての天然自然を詠んでいると思ったのだ。掲句は無季である。しかし、一行詩のように立ち上がってくる一句である。激しい雨にさしのべた手のひらが存分に濡れてしまったことを詠んでいるのであるが、言葉の流れ、その律動、ひらがなと漢字の配合などからすうっと手の景色がみえてくる。美しいてのひらだ。 くるぶしを上げて見えざる春を踏む この句、わたしも〇を付した一句である。Ⅳの項のおしまいの方におかれている。「くるぶし」の句って結構詠まれている。しかし、こんな風にシュールレアリスティックに詠まれた「くるぶし」ってあるだろうか。くるぶしが踏むのは「見えざる春」だというのだ。この一句、句の姿としては人に寄り添うように親しい表情をしているが、この「見えざる春」ってナンダ、上げたくるぶしが途中で止まってしまう、そんな屈折がひそんでいる。「この見えざる春」という措辞をどう解釈したらいいのだろう。安易な解釈をほどこしたくないのだが、「見えざる春」にはやはり大井恒行の批評の目が働いているのか、つまり失われつつある四季のひとつとしての「春」か。。春をうしなった大地のことか。だが、わたしにはくるぶしの先には、春の花々の息吹きが幻想として見えてくるのだ。「幻想」としての春か。あるいは待春の句か、っていまふっと思った。それは素直でいいかも。いいや、ちがうような。。。 美本づくしの史世(ふみよ) 一民(かずたみ)万華鏡 悼 大泉史世(二〇二二年五月一九日・享年七七) Ⅲの章にあるうちの一句である。この章は追悼の句がならぶ。大泉史世さんは、詩歌の出版社「書肆山田」の社主で、夫の鈴木一民さんとともに現代詩を牽引してきた優れた編集者である。「あとがき」にも書かれているように、本来なら書肆山田でこの句集は刊行されるべきであった。しかし、書肆山田は大泉さんの死とともに終業され、刊行がかなわなくなったのである。書肆山田の本作りはどれも美しかった。わたしは編集者勤務のときに、渋谷にあった三省堂に立ち寄っては、書肆山田の本作りにため息をついたものである。憧れの出版社だった。掲句はその大泉史世さんと鈴木一民さんに捧げられた一句である。この章には、わたしも存じあげている俳人の方々がおおく追悼されているが、一句一句が追悼としての重みがあり、こうして追悼の章をもうけることで、一人一人を丁寧に追悼する大井恒行という人の律儀さを思ったのだった。追悼においても、俳句形式は一句をして多くを語らしむる力があることをおもわせる章である。〈水中の水はレモンの水ならん 悼 和田悟朗〉 また一人あらわに死ねり白椿 Ⅳの章に収録。この「あらわに死ねり」という措辞はどういうことなのだろうか。近親者の死ではなく、もっと遠い人間の死を詠んでいるようにおもえる。たとえば、ニュースなどに取りざたされて衆目にさらされる死がある。戦争などにおける死もまさにあらわな死であり、あるいは気づかれない孤独死などもあらわにされてしまう死ともなりうる。そういう「あらわな死」はわたしたちの日常をとりまいている。「死」は本来ひそやかに悲しまれなくてはならないはずのものが、ひそやかな悲しみなどはぎとられて死そのもののがあらわにされている。そんな死をなげていている作者がいる。下五におかれた「白椿」の凛とした白さとその風格が救いだ。この句、白椿以外では救いがないのではないと思われるほど、上五中七を救済している。 ボクの怠惰も手伝って『大井恒行句集』以後の句は、散逸するに任せていた。ただ、同人誌「豈」に、その都度、新作ばかりではなく、総合誌を含む様々な雑誌の既発表作品の中から、気に入ったわずかばかりの句を「水月伝」「無題抄」として再掲載していた。よって、本句集は、ほぼ既刊の「豈」から選抜した。 ボクのこれまでの単独句集はすべて故人に捧げられている。第一句集『秋(トキ)ノ詩(ウタ)』(一九七六年)は、ボクの育ての親ともいうべき伯父に。第二句集『風の銀漢』は、伯母に捧げた。 本句集は、ボクの五十代半ばより、書肆山田の鈴木一民(かずたみ)が、再三再四慫慂していたので、上梓するとすれば、書肆山田以外には考えていなかった。それが、句、いまだ整わずとしてついに応じることができなかった。これまでのボクの単独句集はすべて彼の手によっている。一昨年、一民は、かけがえのない同志・大泉史世を亡くし、そして、その三か月後に、ボクの妻・救仁郷由美子も逝った。不明を恥じるばかりだが、本句集もまた、大泉史世と救仁郷由美子に捧げたいと思う。さらに、ボクの俳句を支えた先人諸兄姉にも。 「あとがき」より抜粋した。 本句集は、夫人の救仁郷由美子さんと大泉史世さんに捧げられたものである。 この本の装釘は、和兎さん。 ラフの段階では、装画のはいったカッコいいものも用意したのだが、大井恒行さんは、いっさいの装画などはなしで文字のみでシンプルにいきたいというのが強い希望だった。 文字のみの装釘となった。 帯も不用。 A5判の大きさは、前句集『風の銀漢』にならったものだ。 やや細目である。 落ち着いたブルーの用紙に タイトルと名前は白箔。 この白箔が要である。 この装釘の全てを語っているといってもいい。 どちらも美しく押されている。 表紙は風合いのあるもの。 本文は天地をそろえず、ぶら下がりで。 尽忠のついに半ばや水の月 恒 行 「あとがき」の最後に付された一句である。 いま気づいたのだけれど、ここの「水の月」があったのです。 そういう思いをこめた「水月伝」なのだろう。。 本句集は、無季もふくめて伝統的な俳句の方法にはしばられない句づくりである。 ただ、本句集を読み通しておもったのは、定型における韻律があるということ、多行俳句もあり分かち書きもあるのであるが、破調の句がほとんどない、大井恒行という俳人には一貫した定型の韻律があってそれがきわめてリリックなので、読み手のこころにすみやかに届くのだ。内容はシニカルなものや重たいものや鋭い批判をこめたものであっても。そして余韻がある。 本句集の出来上がりについて、お気持ちをうかがった。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? 句集の装幀も想像していたとおり良い。(ありがとう) (2)今回の句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい 「あとがき」に書きましたので、それ以上はありません。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 一区切りついたので、今後についてのさしたる抱負もありません。のんびり自由にやります。 まことにシンプルなお答えだった。 大井恒行さん ことしの1月17日にご来社くださったときに、句集『風の銀漢』をまえに。 本句集には名前はでてこないが収録されていないが、「豈」をともにやってきた摂津幸彦さんへの思いはつよい。 かつて「ふらんす堂通信72号」に追悼文をいただいたが、それは『現代俳句文庫 大井恒行句集』に収録されている。 摂津幸彦さんのご葬儀にうかがったとき、気丈な大井さんがうなだれて涙していたことをよく憶えている。 その追悼の文章をすこし引用したい。タイトルは「南国忌と言いて幸彦春に死す」 摂津幸彦は、俳壇にとってマイナーな存在であった。しかし、それは、俳壇という結社の政治的支配から、はるかに遠く存在していたというにしか過ぎない。俳句表現史というものが、誠実に編まれるとしたら、明らかに、その歴史に名をとどめることは疑い得ない。摂津幸彦は、それだけの珠玉の作品を創造してきた。70年代は、いわばその尖端を、真の正体を思わせる作品で飾り、同世代俳人としては、たぶん一番多くの愛唱句をわたしたちにもたらしてくれた俳人であった。(略) 今、私たちは摂津幸彦を失った。しかし、かつて、折笠美秋が髙柳重信の死に際して言ったと同じように、俳句形式をして摂津幸彦を失わしめてはならない、としきりに思うのである。 団塊世代かつて握手の晩夏あり 大井恒行 大井恒行さんも不肖yamaokaも団塊の世代の人間なのです。。。。 大きな餌を咥えた翡翠(♀) これは食べないで巣に運んでいった。
by fragie777
| 2024-05-02 21:02
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||