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4月26日(金) 旧暦3月18日
宝鐸草(ホウチャクソウ)。 可憐な花である。 今日は長目の白ブラウスの上にベストを羽織った。 このベストは、今年のお正月に行ったベトナムのハノイで、たまたま立ち寄った古着屋さんで衝動買いをしたものである。 クラシカルな植物模様が描かれていて、気に入ったのだ。 お値段はすこぶる安い。(おどろくほど) 店員さんが、「古着でもいいのか」と聞くのでわたしは大きく頷いたのだった。 今日はじめて袖をとおした。 とたん、三つあるうちの第1ボタンが外れた。 共布でくるみボタンとなっているもの。 まあ古着だから仕方ないわね、とボタンは付ける時間がないのであとで付けることにして、 第2ボタンのみかけてわたしはそれを身につけた。 あら、案外いけるじゃない…… って、 鏡のわたしに笑いかけて、今日の一日がはじまったのだ。 新聞記事などを紹介したい。 4月21日づけの東京新聞の「句の本」で、守屋明俊句集『旅鰻』が紹介されている。 1950年、長野県生まれで「未来図」で活躍。2021年、『閏」を創刊した著者の第5句集。2018年以降の句を収録した。 眼科医のくまなく覗く我が銀河 三月やたましひと酌む浦霞 おなじく東京新聞の相子智恵さんの時評「俳句の窓から」は、高橋睦郎句集『花や鳥』。タイトルは「貴重な異界への扉」 抜粋して紹介したい。 86歳の高橋が新句集『花や鳥』(ふらんす堂)を上梓した。古典と現代、死者とエロスと諧謔……様々な奥行を自在に行き来する、万華鏡のような一冊だ。 句集の序句に掲げ、題名としたのは、〈花や鳥この世はものの美しく〉。「花や鳥」は現実の花や鳥の声の美しさであると同時に、伝統的な詩歌や絵画の題材「花鳥(かちょう)」でもある。(略) 句集の跋文は、〈少(わか)く俳句なるものに出會ひ、七十餘年付き合つてきて言へることは、俳句はこれこれの詩・しかじかの文である、と規定または言擧げすることの虛しさだ。〉の一文で始まる。さらに俳句の原型を創り、「俳諧自由」を旨とした芭蕉の、創始者ゆえの試行錯誤からくる難解さに触れ、 「古人の跡(あと)をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と説いた芭蕉の志を継ぐならば、我々も自らの創作に生じる難解さを忌避すべきではないという。 これは、俳句の作り方や読み方に分かりやすさを求め、「俳句とは」の難問に、明快な答えを求めがちな今の俳壇(これは俳壇に限らす社会全体の傾向だが)と、それゆえ量産される「只事俳句」に投じる一石である。 句集の末尾には、〈雪頻れ逹磨俳諧興るべう〉の一句を置く。「達磨歌」は和歌の革新者といわれる藤原定家らの、新傾向の難解な歌をあざける言葉だが、その俳諧版こそ盛んになれ、というのだ。意味偏重で無駄を嫌い、すぐに答えを求める現代に、せめて詩歌ぐらいは訳が分からなくてもいい。それは今や貴重な、異界への扉なのだから。 高橋睦郎句集『花や鳥』については、「現代詩手帖」5月号の連載「到来する言葉[俳句]」で、安里琉太さんが「達磨俳諧興るべう」と題して評している。 こちらも抜粋して紹介したい。 〈雪頻れ逹磨俳諧興るべう〉―達磨歌とは、当時新しい仏教として入ってきた禅宗になぞらえて、定家や慈円ら新風歌人の歌を伝統を無視した難解なものであると難じて言った語であるが、この句は「達磨俳諧」という造語をもって伝統を無視した難解さをむしろ礼賛しており、高橋自身による跋の「芭蕉一代の表現行爲を繼承しようと志すなら、その爲事を尊敬しつつ、各人自分一代の爲事を志さなければなるまい。そこに止むなく生じるかもしれない難解さを恐れたり、況んや忌避したりは禁物だらう。」という意気に繋がるものであろう。 この句の上五の「雪頻れ」にも注目しておきたい。(略)「雪」はその志や創作の意気を象徴してるとも読めるわけだが、本書に収められた句を見るに、どうやらそれはただ静かに澄んでゆく創作のありようではないらしく、それはまさしく「頻れ」の措辞の如く、ある激しさ、量感を持ち合わせている。つまるところ、多作にしてそれが即興や挨拶という軽やかな姿勢によってなされており、またその軽やかな多作が口誦性を獲得して達磨俳諧とも言うべき難解さを軽やかに読ませ得ることもある。かつて、〈遊行忌や遊び遊びて捨て捨てん〉と詠んだ高橋の、死をかけた遊行の道程としてはこの一冊のありようは、以来一貫している言えよう。(略) そしてこの句集『花や鳥』について、佐々木六戈さん編集・発行の「艸」の「跋」でも佐々木六戈さんが触れておられる。さきほど高橋睦郎さんがFAXを送ってくださった。ふらんす堂でも「艸」はいただいていて目をとおしたばかりなのに、気づかなかった。句集にふれている部分のみ紹介したい。 随筆や小説の類い、いや、哲学や科学論文でさえ、書き終えて、最後に俳句を一句据えるとそれらは俳句のための前書き、詞書きのようになってしまうのではないか。散文の自由はそれほどに脆いものではないか。定型を有して、一見、不自由を鎧う俳句の方が、その結晶度において侮れぬ自在の器ではないか。言わば、俳句は世界を改行する。高橋睦郎氏の最新句集『花や鳥』には序句があった。〈花や鳥この世はものの美しく〉うーん、至宝の一句ではないか。これで句集を終えてもよかったが、一句では句集とは言わぬか。集の名も「花や鳥」だから、集の扉を開けると、ただ、この一句だけがある。あとは奥付。私たちはこの序句に唱和するように、つまり、序句を改行して次の俳句を加える。この序句は無尽蔵であるように思える。私は高橋氏の詩歌句のほぼ全てを読んできたから、その全てがこの序句のための詞書きになったような、そんな気持ちすらする。「物の見えたる光」「物のさめざるうちに」生きるとは難行であり、果てしもない。『花や鳥』の栞文のお三方だが、いずれも素晴らしかった。ほとほと感心した。私も見倣って人様の句を懇ろに読まなければ。 まことに味わい深い文章だ。栞文を書かれた方たち(堀田季可、小津夜景、岩田奎の方々)のことにもちゃんと触れておられるのがうれしい。 実は、今日この「跋」をわたしは読んでいたのだ。マヌケな人間なので、句集『花や鳥』についての箇所は気づかず、そのあとの「やつし」に触れた文章に立ち止まっていたのだった。 紹介をしてみたい。 私の句会は小さなものだ。連衆は四人から十人といったところだろうか。各々は各々を大切に扱わなければならない。言い換えるならば、自分の句は皆に分かるように「やつし」ていなければならない。「やつし」は「窶し」である。身を低くして、しかし、自分の伝えたいことを一つも減らさずに、各々伝えなくてはならない。そのうえでこれは恐ろしいことであるが、自分の句を読んで呉れる者が、その句座に居ないかも知れぬということを覚悟しなければならない。読んで呉れる者は、他界した昔の連衆かもしれないし、誕生していない未来の連衆かも知れない。そのように思うのがよい。 おもしろい文章だ。 「やつし」という言葉がわたしをとらえたのかもしれない。 4月も終わりつつあり、ゴールデンウイークがはじまる。 皆さまよき日々を。 今日のベストの一部分。 あはっ。 どう。 かわいいでしょ。 上から撮ったの。。
by fragie777
| 2024-04-26 20:05
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