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4月25日(木) 旧暦3月17日
夕暮の桐の花。 さきほどサンダル履きで行って撮ってきたもの。 眼と鼻の先にある桐朋学園の桐の花である。 この学園を象徴する花だ。 松の木のむこうに高々と咲いていた。 今日紹介する句集の著者・阪西敦子さんに捧げたいって思いたち、 夕方になってしまったけど写真に撮りに行ったのだった。 こころ高鳴る桐の花である。 そういうわけで今日は阪西敦子句集『金魚(きんぎょ)』を紹介したい。 多くの人に待たれていた句集である。 四六判ハードカバー装フレキシブルバック製本帯有り 290頁 三句組+七句組 著者の阪西敦子(さかにし・あつこ)さんは、1977年神奈川県逗子市生まれ、1984年「ホトトギス」生徒・児童の部に投句を開始。2008年「ホトトギス」同人。1995年「円虹」所属。日本伝統俳句協会会員、2010年同新人賞受賞、現在、理事。句集は第1句集となり、俳句をはじめてより2022年までの句を収録している。跋文を「ホトトギス」主宰の稲畑廣太郎さんが寄せておられる。 跋文より抜粋して紹介したい。 この句集は各章題が金魚の品種となっており、先ず「和金」(一九九五~二〇一一)、「出目金」(二〇一二~二〇一六)、「蘭鋳」(ラグビーの作品をまとめたもの)、「阿蘭陀獅子頭」(二〇一九~二〇二二)、そして「小赤」(一九八四~一九九五 生徒・児童の部)の順で編集されている。(略) 芍薬の蕊見え酔ひの回り初む 日に透けて病葉に青返り来る ソースからオムレツ覗く小春かな 風呂吹を箸に冷まして家族欲し 二〇一九年から二〇二二年までを「阿蘭陀獅子頭」として一章に纏められているが、一見大胆な表現と思える中に、細やかな観察眼が行き届いている。稲畑汀子の言葉として「見るから観るへ」というのがある。これはただ眺めるだけではなく、その奥にある季題の本質を探ることが大切であるという意味だが、まさにそれを実践した素晴らしい作品群である。 本句集は300頁ちかい大冊であり、一頁3句組ときに7句組も数ページあり収録句数はかなり多い。40年間の作品の収録である。しかし、この句集は決して重くれておらずしっとりと軽やかである。編集の仕方が上手いこともある。編年体となっているが、子ども時代の作品を巻末にまとめて収録してあることも阪西敦子という俳句作者の厚さを嫌味なく語っている。各章をすべて金魚のタイトルで仕上げたのも気が利いており、読者を楽しませる。 明るい金魚がひらひらといるこの句集のページをひらくと、作品がやさしい表情をして読者によりそってきてくれる、そんな一冊である。 担当はPさん。たくさん好きな句をあげてもらったが、そのうちのいくつかを紹介したい。 箸させば箸に寄り来る三月菜 寒卵片手に割つて街小さし また梅の中に遅れてしまひけり 鳥と人分かちて冬の雨が降る 麗かや雲のごとくに魚死にて 皿の影黄粉に流れ日永かな 俎も菜箸もまた独活の香に 木目よく見えて文月の机拭く 人しづかなればしづかに町の蜂 また梅の中に遅れてしまひけり 「また」という副詞ではじまる一句だ。「しまひけり」という下五によってやや嘆きの気配がある。どんな嘆きかというと「梅の中に遅れ」てしまったというなんとも優美な嘆きである。この一句「梅の中」という措辞によって、遅れた人をとりかこむ世界がみえてくる。梅見のそぞろ歩きのなか、人よりどうしても遅れてしまう、そんな自身をすこし呆れながら楽しんでいる風情がある。梅の花をゆったりと楽しむこころ、梅という花のもつ時間の鷹揚さを存分に味わっているのだ。「中」という語に作者の梅の花に対する境界のない思いがみえる。 皿の影黄粉に流れ日永かな この句、読んだとき一瞬あれってわたしは思った。「皿の影」が「黄粉に流れ」ているとは。理屈っぽく解釈すると、皿からあふれた黄粉が皿のまわりに零れていて、そこに皿の影が達していることか。ううん、まてよ、この句の面白さは、「皿の影」が動体となって「黄粉」に流れて、触れているのではなく、流れている、ということ、それだ。黄粉の色のあざやかさに皿の黒い影が動いて達していく、そんな時間を作者はみているのだ。なんとも長閑なことよ。まさに日永の一日であればこそ。この句の眼目は「流れ」で細やかに時間を摑みとったことか。 人の上に花あり花の上に人 この句はわたしが好きな句である。本句集の第1句目におかれた句である。季題は「花」。実際はお花見の様子をでもあるのかもしれないが、もっと抽象化された人と花との関係を時間的、空間的に詠んだ一句としても鑑賞できる。そして「花」と「人」とが見事に親和しているのである。この自然や事物との親和性こそが阪西敦子という俳人の特性ではないかとわたしは思ったのだ。このすぐあとに〈藤棚を仰げば降りてくる香り〉〈春惜しむままに眠りてしまひたる〉〈箸させば箸に寄り来る三月菜〉などなど。 死してなほ縞笑ひをる藪蚊かな 面白い一句である。死んでいる藪蚊を描写した一句である。たぶんバシッと打ってころした藪蚊だろう。死んだ藪蚊をみられるのは誰かが殺したばかりの藪蚊だと思うから。この句がちょっとへんで面白いのは、死んでも笑っているという蚊を詠んだばかりでなく、その笑っているのが顔ではなく蚊の縞模様であるということだ。もうぐしゃりとなった蚊は顔なんて判別できないだろう。しかし、この藪蚊はその縞模様がすばらしくステイタスでもある。潰されてへしゃげた藪蚊の縞模様はなんだか笑っているようにみえる。作者は、死んだ藪蚊へのある敬愛をこめて、その藪蚊を象徴する縞模様の縞がなお不敵に笑っていると詠んだのだ。「縞笑ひをる」がシュールな味があっておもしろい。〈紅の水音のある冬野かな〉という句もあって引かれた一句だ。この「紅」もシュールである。阪西さんの俳句はどれもやさしい表情をしているのだが、ときに不思議な謎を秘めていることがあり、それが面白い。 風呂吹を箸に冷まして家族欲し 一人暮らしはたのしくてきままでもあるが、つくづく飽きてきた。熱燗を味わいながら風呂吹をふうふう言って食す。そんな時にうまれた一句か。この句の巧みさは、「箸に冷まして」である。風呂吹きを吹いて冷ますのは常套である。しかし、この句は、「箸に冷ます」である。「箸に冷ます」という措辞によって、風呂吹きとその人物との距離がみえてくるのだ。やや、一人暮らしをもてあましている人間の顔が浮かんでくる。淋しいとか退屈とか言っていないが、そんな感情がみえてくる、が、作者はその感情は徐さない。あくまで風呂吹きを箸でつついている描写のみである。ゆえに下五の「家族欲し」という始めて語られる感情がつよく読者に迫ってくる。 校正スタッフのみおさんは、〈腹巻や人より少し働かず〉「(私のことかと思いました(笑)」ですって。 わたしもたくさんの好きな句があったが、それはこの句集を読むひとたちの発見にまかせたい。 私の計画性のなさや、整理整頓の悪さのために、句集刊行を思い立ってからもかなりの時間が経った。その間、祖母の予告の通り多くの句友、四人の師に恵まれた。今回の句集はその一九八四年から師・稲畑汀子が亡くなる(追悼句を含む)二〇二二年までの句から、自選とした。二〇一七年から一八年の句が抜けているのも整理整頓の問題によるもの。次への課題としたい。 汀子が口癖のように言っていたことで、心に残っているのはこんなことだ。句には結局自分が出てしまうこと、人が頼んでくれたことは引き受けること、自信をもって外へも出てみること。二人目の師であった山田弘子には、よく質問をした。写生はどこまで写生ですかと聞けば、見えたらそう詠んだらいい、句集を出そうと思うけれどどうでしょうと聞けば、誰が反対しても出したらいいと明解であった。どちらも何よりも大切な言葉であったことに、句を選びながら気づかされてきた。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装釘は和兎さん。 金魚の装画がたくさんあるが、それは阪西敦子さんのお母さまの阪西明子さんの手によるものである。 明子さんは、句衆『金魚』の刊行を待ちながら、おりおり敦子さんにイラストをおくってこられたと「あとがき」にある。 その「金魚」のイラストでこの句しゅうは命を得たのである。 タイトルは金箔に。 カバーをとった表紙にも。 見返しは赤。 扉。 フレキシブルバックなので厚い本でもひらきやすい。 ラガーらの目に一瞬の空戻る 知る人ぞ知る彼女は実際選手としてクラブチームで試合に出たこともあるという。(略)ラグビーを実際プレーして、このスポーツを熟知している人でしか表現出来ない句柄ではないかと思わされるものがある。(稲畑廣太郎/跋) 上梓後のお気持ちを阪西さんにうかがってみた。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? うれしいというよりは、ほっとしました。 家にちゃんと入ったのもよかったし(数日前から場所を空けるために奮闘していました)、とにかく何とかできたという思いが強かったです。 (2)初めての句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい 何かにとりかかるのがとても苦手の一方、何か始めると手放すも苦手です。 句集を纏めなければ、何か区切りをつけなければと思う一方で、もうすこし続けるといい区切りがあるのではと思ってずるずるしていました。 今回は、今、手放したいという自分の気持ちと状況、取り掛かるにはこういう風にする手があるよという佐藤文香さんの後押し、いくつかのきっかけが上手く重なって、このタイミングになりました。籠めたものではありませんが、作っていきながら句から色々なことが思い出され、(できたときにいた人や後から言われたことなど)本当に俳人を中心としてですが、そのほかにもいろいろなひとに出会ってお世話になってきたなと改めて思いました。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 これまであまり意識してなかったのですが、句集を通して読んでみると、ゆっくりではあるもののひとりでに自分の行きたい方に進んできていたように感じられました。 一方で句集に残した句のほとんどは、そのときしか作れなかった句だということにも気づきました。 それが「観る」ことなのかなとも。 今後も「観る」ことを続け、そのときそのとき、句にして行けたらいいと思います。 加えて、飽きっぽいのか、過去にできたことをなぞってもあんまりわたしにはいいことはないようなので、それはもうやめようと思います。 それから、作句ではないですが、もう少しちゃんと作った句を日頃から整理しようと思います。 「あとがき」にも記されているが、句集『金魚』の刊行は、佐藤文香さんに負うところが大きい。 文香さんがおられなかったら、まだ上梓には至っていないと思ってしまうほど。 きっとこの句集刊行を阪西敦子さん以上に喜んでおられると思う。 佐藤文香さま、いろいろとありがとうございました。 そして、待ち望んだ句集『金魚』ついに刊行! 良かったですね!! わたしも待ち望んでおりました! 阪西敦子さま、句集ご上梓おめでとうございます。 いろんな方に愛されている阪西さんである。 多くの方がこの度の句集上梓をよろこんでおられると思う。 阪西敦子さん(左)と佐藤文香さん。 2023年11月24日、ご来社のときに。 金魚揺れべつの金魚の現れし 阪西敦子
by fragie777
| 2024-04-25 20:35
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