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4月19日(金) 穀雨 旧暦3月11日
八重桜の季節である。 仙川商店街の一角にひときわ華やかな彩りの八重桜。 なんと大きな花瓶に活けられていたのだった。 今日は夏のような一日。 すこし歩いても汗ばんでくる。 日焼けをしないように帽子をふかくかぶったのであるが、 サングラスにマスク、そして目深な黒い帽子となると、なにやら犯罪者のよう。 で、 日傘にきりかえたのだった。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯なし 180頁 二句組 著者の安達昌代(あだち・まさよ)さんは、1959年千葉県生まれ、現在は東京・小平市在住。20代のころに俳誌「秋」で石原八束に俳句をまなぶ。一時、作句を中止するが、2011年ふたたび「秋」(佐怒賀正美主宰)に入会、現在は「秋」編集長。現代俳句協会会員。本句集は第1句集であり、佐怒賀正美主宰が「序にかえて」を寄せている。 序文は章ごとに句を二句ずつ紹介し丁寧な鑑賞をされているが、ここでは抜粋して紹介をしたい。 本書は作者の第一句集である。私どもの結社「秋」に入会されてから十四年目の句集だが、作者の作品は最初から領域が広く、表現も整理されていた。途中、一年ほどの休止期間があったが、復帰後は更に詩的感覚も豊かになり、二〇二一年からは「秋」誌の編集長に就任。新しい世代への編集部内の引き継ぎも着実にされてきた。 百獣の隊列満月の高速路 スノーボーダー空の急所を押し上げる 一句目、発想の起点は高速道路での渋滞あるいは低速運転している自動車群であろうが、舞台はたちまち物語性を強く帯びる。満月に照らされ車はそれぞれ既に獣に変身し、生存権を取り戻すべく百獣たちは威勢よくデモでも行っているかのようだ。句の表記は漢語が多く視覚的印象は固いのに、いったん想像の世界に入り込むと、解凍されたかのように獣の息濃く、力強い姿態が思い浮かぶ。奇想めくが詩的実感の強い句だ。 二句目は、「秋」の巻頭を飾った句。スノーボーダーが斜面から勢いよく空中へ飛び上がる。そのときに目指すべき「空の急所」があり、到達したらさらにその一点を「押し上げる」ように(多分回転)演技をするのだと。スノーボーダーの視界と矜持がありありと届いてくる。焦点の絞られたダイナミズムとでも言おうか。スポーツ俳句の記念碑的な秀句である。 集名は、「真顔」。句集中には二句ほど「真顔」が出て来る。広辞苑によると「真顔」とは「まじめな顔。まことしやかな顔」とある。 雷光にさらす真顔の白さかな ジンジャーブレッドマン真顔もゐる聖夜 最初の一句は、ご本人の「真顔」だろう。二句目は「ジンジャーブレッドマン」という人型の生姜風味のクッキーの「真顔」だ。なにゆえ「真顔」という集名にされたかは明かされていないが、「おもねることのない一途さ」が本句集にはあって、一読後「真顔」という集名が頷けるのである。 本句集の担当はPさん。Pさんの好きな句は、 マスカット少女の中の発光体 寒林にかざせば擬態しだす指 スノーボーダー空の急所を押し上げる 途中まで翅になる気の木の芽かな 栗羊羹読めぬ空気を切り分けて マスカット少女の中の発光体 掲句は、序文で佐怒賀主宰もとりあげておられ「マスカットの果肉の光に、少女の秘めた成長の光を瞬時に感じ取った」と鑑賞。そして「シャープな思い切りのよい句」であると。マスカットと少女。もうそれだけの鑑賞で充分であり、これ以上何をいうかという思いもあるのだが、この句は読み手にあのマスカットの緑をすぐに呼び起こす。巨峰とピオーネに代表されるような黒葡萄は、成熟した魔性をひそませているような女人の趣きであるが、マスカットの色はまさに少女の瑞々しさをおもわせるような色である。この句のユニークさは、「少女の中の発光体」の「発光体」という語彙ではないだろうか。この句によって少女は「発光する生きもの」であると認識させられるのだ。少女の身体が透明になって瑞々しく発光している、それが清潔なさまにおもえるのは、上五にある「マスカット」の季語なのだ。かたく新鮮で薄緑のマスカット、そのマスカットに少女は感応しているのだ。 スノーボーダー空の急所を押し上げる この一句にであったとき、ちょっと驚いた。オリンピック競技などで最近見ることがあるが、あの素晴らしい跳躍の一瞬をこのように詠むとは。鋭角に空へと切りこんでいくスノーボーダー、人間とスノボーが一体となって切っ先をもった弾丸のごとく跳ね上がるのだ。この句の眼目は「空の急所」である。この句によって空には急所があって、スノボーダーに押し上げられてそこが悲鳴をあげているかのように思えてくる。面白い一句だ。この句も、序文でとりあげられているものだ。すでに紹介をしているが、「「スノーボーダーの視界と矜持がありありと届いてくる。」という鑑賞が深い。 ハミングで己あやせる花曇 これはわたしが気になった句。春愁の思いを「花曇」の季語をたくみにつかって詠んだ一句とおもった。花曇のときは空がおもたくなにか鬱陶しい。気持ちもいっそう沈んでしまう。そんな時はハミングをしながら、(どうってことないわ)なんて呟いてみる。「思い」を述べないで自身を写実しているのみだが、「花曇」の季語が効いている。桜の花の満開の下、やや俯きがちにハミングをしている人がうかびあがってくる。おなじ桜を詠んだ句で〈頰に散る花ひとひらの微温かな〉という句もいい。「微温」によって桜の花びらにもかすかな温もりがあることを知るのだ。冷たさのもつ温もり、そんな感触をおもった。 香水の壜の数だけ顔持てる 面白い一句だ。「香水」が季語。目の前にならんだ香水の壜の数々。ご自身のことであるなら安達昌代さんは、いったい何本くらいの壜をお持ちなんだろうか。香水は一つ一つ香りがちがう。どの香水をつけるかは、そのときの状況によって変わる。フレッシュな香り、濃密な香り、野性的な香り、秘密をひめたような香り、数え切れない香りがある。また香水には名前もあって、その名前もそれぞれ意味がある。それぞれに物語が込められている。香水をつけるということは、その背後にある物語の主人公になることだと、わたしは実は思っている。香水をつけることによって、変貌するのである。この句「顔持てる」と具体的に詠んだのがおもしろい。そして、たくさんの香水とたくさんの顔を持っている安達さんであるが、いちばん大切にしているのは、やっぱり「真顔」なんだって思ったyamaokaである。 うち脱ぎし浴衣に花のやうな芯 この句も面白い。「浴衣」をこんな風に詠むとは。なんといっても「花のような芯」が、おどろきつつよくわかる。糊がきいた浴衣であっても人が着たあとは身体になじんでやわらかくなる。脱いだあとの浴衣はまだ体温のぬくもりがのこっている。その人の気配をかんじさせる浴衣が脱ぎっぱなしになってある。人になじんでやわらかくなったとはいえ、糊をきかせた浴衣である、その生地のこわばりとやわらかさとひとのぬくもりの気配、それを「花のような芯」と捉えたところが巧みである。脱がされて放置された浴衣も、このように表現されたら文句はないだろう。 校正スタッフの幸香さんの好きな句は、〈待ち合はすネットの中の春の野に〉。 褒められた話ではないのだが、「秋」への入会は二度目になる。二十代の頃西武教室の句会に参加し、連衆の並々ならぬ熱気に触れて俳句の深淵を覗きかけたが、生活の変化にかまけてフェードアウトしていった。 それから四半世紀余りを経て思いも寄らず再び門を叩いたのは、時の為せる業としか言いようがない。日常の言葉では処理し切れぬものが私の中にも堆く積もったということだろう。それは俳句でなくともよかったのかもしれないが、俳句であったことに感謝している。句作という極めて個人的な営みと句友を同時に得ることができた。途中、人並みに病も得て一年間療養したが、これもまた得難い経験であった。ぴったりと張り付いた肉体と魂の間に隙間のできた軽やかさは今も続いている。 集団との繫がり方が不得手な私でも句会に通い続けていられるのは、俳句という文芸の器の広さと「秋」という結社の寛容さ誠実さのお陰であるとつくづく思う。これからも句作を通して、この世界と新しく出会い直してゆければ嬉しい。 「あとがき」を紹介した。 「日常の言葉では処理し切れぬもの」というものを俳句で表現されているのだと思った。 装釘は君嶋真理子さん。 「真顔」というタイトルはなかなかデザイン化しにくいが、安達昌代さんにふさわしいすっきりとした一冊になった。 カバーをとった表紙。 扉。 現実把握力と想像力。作者の俳句の現代性はこの両翼の力を得て、今後もさらに自由に展開されていくことであろう。(佐怒賀正美/序) 上梓後のお気持ちをうかがった。 (1)生き延びてよかったな、と素直に嬉しく思いました。 (2)表層の下にあるものを見つけたい気持ちはいつもあるように思います。 (3)変化を恐れずに、いつか自分にとっても明日への励ましとなるような言葉が見つけられたらと願っています。 句集『真顔』を拝読していると、ものを見る切り口の意外性におどろかされる句が多い。あたらしい視点でものをみること、そんなことを教えられる一冊である。 安達昌代さん チューリップ天真として香を持たず 安達昌代
by fragie777
| 2024-04-19 19:41
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