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4月16日(火)土用 旧暦3月8日
ハシボソガラス。 鴉ももっか子育て期間に入っているのだろうか。 威嚇するように人をかすめていくカラスを商店街で二度ほどみた。 わたしはその現場をみて、あきらかに意図的な威嚇だとおもった。 カラスはあなどれない。智恵がはたらく。 蛇笏賞が決まった。 小澤實さんの句集『澤』(角川書店刊)に。 今日のお知らせでこの句集は今年度の俳句四季大賞も受賞されたことを知る。 また、歌人の吉川宏志さんが、歌集『雪の偶然』(現代短歌社)で超空賞を受賞をされた すこし前になるか、池田澄子さんの句集『月と書く』(朔出版刊)が今年度の小野市詩歌文学賞を受賞。 そして、俳句四季新人奨励賞を中西亮太さんが加藤幸龍さんとともに受賞された。 中西亮太さんは昨年ふらんす堂より句集『木賊抄』を上梓されている。 小澤實さん、池田澄子さんは、「ふらんす堂通信」に連載で作品をいただいている。 吉川宏志さんは、昨年のふらんす堂ウェブサイトで「短歌日記」を連載していただき、もっか歌集『叡電のほとり』が編集中である。 いろいろとふらんす堂にご縁をいただいている方のご受賞であることも嬉しい。 ご受賞された皆さまに心よりお祝いを申し上げたい。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯有り 188頁 二句組 著書の大木満里(おおき・まり)さんは、昭和24年(1949)神奈川県生まれ。平成17年(2005)に玉川大学継続学習センター「はじめての俳句」で中西夕紀の指導を受ける。平成20年(2008)中西夕紀主宰「都市」創刊入会。編集委員。平成26年(2014)から平成30年(2018)「都市」編集長。現在「都市」同人。編集委員。俳人協会会員、ご自身が俳句をまなびはじめた玉川大学継続学習センターにて俳句講座の講師をしておられる。本句集は第1句集であり、中西夕紀主宰が序文をよせている。抜粋して紹介をしたい。 満里さんは玉川大学の継続学習センターの、私の担当の俳句講座から俳句を始められたが、その時は小学校の教師だった。 物言はぬ児に寄り添へり桜草 せんせいと初めて呼ぶ子新樹光 茂より声弾みくる昼休み うきうきと内緒話や休暇明 「はい」と云ふ最後の返事卒業す 賀状来て教へ子父となりにけり 身辺のことを詠い始めて、子供の句が次々と出て来た。内気な児も活発な児も表情豊かに描かれている。茂みから元気よく現れた子供たちを、作者は大きな声で出迎えたのではないだろうか。満里さんの子供の句はいつも愛情がいっぱいである。そして、定年退職した今も満里さんの子供の句は愛情に溢れている。(略) 子供がいるとつい目が行ってしまうのだろう。その上、子供を描くと「都市」の中で断トツに上手い。 本句集の担当はPさん。 Pさんの好きな句は、 掌に風の硬さや春の雪 黙々と釘打つ人の息白し 白梅の空一隅のひかりかな 秋草のあはひに立てる水の音 強東風や産みたて卵買ひに行く 花冷やいつしか町の濡れてをり 水音にひかり混じりて春きざす 秋草のあはひに立てる水の音 秋草は春草にくらべてもの淋しい風情がある。そうじて春草のように賑やかで明るくはない。しっとりとして風がよくとおっていくそんな余白をおもわせるのが秋草だ。その「あはひ」をとらえたのがいい。そう「あはひ」があるのだ、秋草には。そんなことをまず読者に気づかせる。そして、その「あはひ」に澄んだ水音が立ち上がってくる。ひんやりとした感触のきわやかな水の音。水温む季節とはちがう研ぎ済まされた水音である。この一句からまさに秋が立ち上がってくる。 水音にひかり混じりて春きざす こちらの水音は春の水音である。水温む季節となって硬直していた水がやわらかくなり命の活気をおびるそんな季節だ。そんな水音に「ひかり」が混じったという繊細な観察である。ひかりは森羅万象にやどる。風にやどり水にやどり地にやどり、そして水音にもやどるのである。かすかな春の訪れを「水音にひかり混じり」ととらえた一瞬を一句にした。この句、「イ音」が全体を貫いていて、春浅い大気の緊張感をそこはかとなく感じさせているのだ。〈白梅の空一隅のひかりかな〉は、これも作者の繊細な五感がとらえた一句であるとおもう。 律儀なる寝息の父よ梅真白 中西夕紀さんが序文でもとりあげていた句である。父の律儀さと「梅真白」がよく響き合っている。お母さまがなくなって、お父さまのとの暮らしのなかで詠んだ一句である。「梅真白」という季語の据え方でやや父との距離を想う。寝入っていても乱れることなく端正な寝息をたてている父。きっと、ねえお父さん、なんて肩を気やすく敲くことなんて出来なかった父上だったのではないだろうか。寝息までの律儀な父をみながら、「梅真白」という措辞が父とわれをへだてるように鉄壁のごとくある。この季語の置き方にわたしは勝手にそんなことを想ったりした。尊厳なる父、ちょっと近づきがたき父、真っ白な梅がまぶしすぎる。という娘の複雑な心境がわずかに見える一句だ。〈沖縄を生還の父彼岸講〉という父でもある。 自画像の数だけ大志卒業歌 長い間小学校の先生をしておられた大木満里さんである。子どもを詠んだ句はどれもいい。子どもを愛したよき先生だったんだなあって思う。〈「はい」と云ふ最後の返事卒業す〉の句もこどもとの関係性が詠まれていて、子どもをみつめる作者の真剣な気持ちがつたわってくる。掲句は、きっと子どもたちに自画像を描かせたのだろう。それを教室の壁に貼りだしたのである。そして一枚一枚子どもの顔を思いながらみていく。そんな自画像を描いた子どもたちも卒業していくのである。いま目の前で卒業歌を歌っている子どもたち、その一人一人の自画像を思い浮かべ、そこに宿っていた大志を思っているのだ。限りない可能性のある「大志」がいい。子どもとともに過ごすということの時間の素晴らしさをおもわせる一句だ。 隙間なく卒業の椅子並べけり こちらも「卒業」を詠んだ一句である。さきほどの「卒業歌」が前半に収録されていたとすれば、こちらは句集のおしまいの方に収録されている。この句が面白いとおもったのは、俳句がもつ「省略」を巧みに活かしながら、一句に仕立ててあることだ。淡々と詠まれたはからいのない一句のようにみえるが、眼目は「卒業の椅子」である。散文のなかに見出した場合、「卒業の椅子」は意味をなさない。椅子が卒業していくのか、という疑問さえ出て来る。しかし、俳句の定型になかでは「卒業の椅子」で充分意味が通じるのである。それを隙間なく並べたということであるが、これから卒業式がおこなわれていくそのまえの緊張感や粛々とした空気が呼び起こされる一句だ。「隙間なく」は実際の景であるとおもうが、それによってそこを支配する空気の緊密さまで感じとることができる。切れ字を効果的に用い、すっきりと詠んだ俳句ならではの一句だと思った。 ずっと俳句には関心があったが、今一歩踏み切れないでいた。 思いもかけなかった大病に出遭わなければ、私の俳句への想いは、そこで終わっていたかもしれない。 苦しい闘病生活がようやく終わった時、俳句をやってみようと思った。 玉川大学継続学習センター「はじめての俳句」で、中西夕紀先生の指導を受け始めてから二十年になるが、当時教職で多忙な日々を過ごしていた私には、土曜講座受講は大きな楽しみになった。 句は前日の夜に纏めるのだから、今考えると恥ずかしい限りであったが、怖いもの知らずで出席し、句会の皆さんの鑑賞の言葉が多彩でとても新鮮だった。 私は、中西先生がいつも仰っていた「継続は力」を信じていた。だから、つづけることができたと思っている。 学んだことを、校内での実践にも生かすことができた。小学二年生から六年生までの児童全員に、俳句もどきではあったが五七五の創作の場を作った。これはどの子も進んで参加でき、言葉の楽しさを感じてもらえた、と思っている。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 装釘は君嶋真理子さん。 句集名「夏祓」である。 「夏祓」という季語をイメージ化してデザインした一冊となった。 それが面白い。 タイトルはツヤ消しの金箔。 動きのあるデザインだ。 カバーをとった表紙。 ハミングはひとりの歌よ春深し 満里さんの生きる姿勢が見える作品である。 満里さんは自分の心を詠む深いところに行きついたようだ。(中西夕紀/序) 上梓後のお気持ちをうかがった。 私の俳句が、ここにある。 その喜びに、今ひたっています。 表紙もすっきりと素敵、と評判でした。 中西主宰のあたたかき序文も心に響きました。 皆様からいただいた鑑賞のことばにも心うたれています。 このあたたかさを胸に、これからも私の今を詠んでいきたいと、願っています。 大木満里さん。 昨年の10月3日にご来社のときに。 大木満里さま 句集のご上梓おめでとうございます。 子どもたちへのあたたかな目差しに貫かれた一冊とおもいました。 走る子の次々転(まろ)び春の山 大木満里
by fragie777
| 2024-04-16 19:59
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