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4月9日(火) 鴻雁北(こうがんきたす) 旧暦3月2日
雨風のはげしい春の嵐となった。 かなりの桜が散ってしまったのではないだろうか。 駅前の桜ははげしく散って、駅の中にまで花びらが散り込んでいたそうである。 手紙をポストに投函するべく地上に降りたときには、雨はすっかり止んでいた。 今日も読み合わせである。 わたしはゲラを持って、あっちの机、こっちの机と放浪の民のごとくさまよいながら、読み合わせをしたのだった。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯有り 204頁 2句組 著者の関谷恭子(せきや・きょうこ)さんは、1963年岐阜県神岡町(現・飛騨市)生まれ、現在は岐阜市在住。2010年「濃美」(渡辺純枝主宰)入会、2017年「濃美」同人、2018年「蒼海」入会(堀本裕樹主宰)、創刊より19号まで参加後退会。2023年、濃美同人賞受賞。俳人協会会員。本句集は2010年から2022年までの作品を収録した第一句集であり、「濃美」の渡辺純枝主宰が帯文を、「濃美」を通してご縁のあった加藤かな文氏が序文を寄せている。 まず、帯文を抜粋して紹介しておきたい。 笹百合や落人を祖と唄ひつぎ 恭子さんの遠つ祖は、源平の戦に破れ飛騨の山中に生き延びた人達である。人間との殺戮の後に待っていたのは、厳しい自然との闘いであった。 此に恭子さんの曾祖父のエピソードを一つ揚げよう。彼は熊撃ちの名人であった。生涯に九十九頭の熊を撃ち、遂に百頭目で熊に遣られこの世を去った。 ――――この雄勁 一方、笹百合は幾星霜に亘り地下で命を繋ぎ、あの清らかな花を咲かせる。 ――――この嫋々 この二つの性状を合わせ持って恭子さんの作品は生まれる。 句集名の「落人」は、作者の出自にかかわるものである。「わが家の先祖は平家の落武者」とお祖父さまに言われてそだった関谷恭子さんである。その言葉は関谷さんの胸に刻まれ、こうして第1句集を「落人」と題して世に出すことになったのである。 序文を書かれた加藤かな文さんは、たくさんの句を引用、鑑賞しながら、著者の魅力をあますことなく記しておられる。 一部のみを紹介したい。タイトルは「濁らない水」。 恭子さん本人について私が知っていることは皆無に近い。「あとがき」や「者略歴」を読んでもよくわからない。だが、ほぼ唯一の情報として明かされた「落人」の末裔というアイデンティティに、思わず膝を打った。自分を語らない恭子さんの俳句に何とも似つかわしい。そこに暮らすことを誰にも知られぬよう息を潜めて生きてきた人々。生活の痕跡を示す音や煙はもちろん、川の濁りさえ恐れつつ暮らしてきた人々。その「落人」の血が恭子さんの俳句には流れている。いや、そもそも俳句という文芸は、自分の生きた証を、遠慮がちに今生に残す手段ではなかったのか。夜陰に紛れて、「落人」が下流に流す一枚の葉っぱのように。 梅花藻の花なきところ水を汲む 縮着て明るき闇へ夫の背 漁舟ヨットレースを遠巻きに 次の皿しづかに待ちぬ夏料理 〈梅花藻の花〉が辺りの〈水〉を濁す。その濁りを避けて〈水を汲む〉、と読んでみたらどうだろう。どんなに可憐な花であっても命とはそういうもの。〈明るき闇〉とは花街なのか。〈夫の背〉を刺す妻の視線を感じる。華やかな〈ヨットレース〉の沖には、ふだんどおり操業する〈漁舟〉の日常がある。〈次の皿〉までの静寂を埋めるのは、かすかに届くせせらぎの音。 加藤かな文さんは、関谷恭子さんの俳句にひそむ明暗を繊細に浮き上がらせる。 わたしは、「落人」というその句集名を目にしただけでも、そこに秘められたものを思ってしまう。自身のなかにある血のすじをはるかな時間を遡って感じるということ、敗残の暗さを底流としつつ、必然、作者の精神世界は陰翳をまとうことになるのだろうか。 本句集の担当は、文己さん。「どの句にもしみじみとした良さがあって、万葉の世にいるような感覚に陥りました。」ということで選んだのが次の句。 風ひんやりと夕立のきつと来る 嶺はるか道に迷ふも涼しくて 貨車行くは海鳴りに似て明易し 木に石に水に祈らむ秋の朝 粥占のまづ丁寧に火を育て 乾ぶもの十一月の軒の端に 貨車行くは海鳴りに似て明易し まず都会の景ではないな、って思い、ある懐かしさのような気持ちがおこった。貨車のおとを海鳴りと聞く、その詩心が読み手を真っ先にとらえる、そうか、貨車の音って海鳴りのようなのか、と得心し、黒々とした貨車が山間をいく風景のその向こうに青い海が見えてきたり、あるいはそれを想像したりする。遠景を読者に呼び起こしつつ、その時間はまだ朝まだきであり、それらが白々と明けて行くところである。この句のおもしろさは、貨車の行く風景を視覚によびおこし、それを海鳴りの聴覚へと読者をいざない、「明易し」という肌感覚でおさめるところだ。読者はその感覚をここちよく刺激されながら一句を味わうことになる。 乾ぶもの十一月の軒の端に かな文さんもこの句を序文でとりあげておられる。「細見綾子の『峠見ゆ十一月のむなしさに』と重なる八音に恭子さんのいたずら心を感じる。」と。細見綾子の句が、心象的であるが、関谷さんの句は具体的な事物を詠んでいるのが、ちょっと違う。しかし、かな文さんが書かれているように、細見綾子の句が念頭にあったのだと思う。軒の端にぶらさげてあるものが乾涸らびている、その事象が時の残酷さを暗示しており、それは細見綾子の一句が語ることに響きあっているのだ。具体的な事物ももって、綾子の一句への挨拶句としたのではないだろうか。 フェルトに沈む文鎮花の冷 作者が自選句に取り上げている一句である。かな文さんも序でふれている。「柔/温の〈フェルト〉と剛/冷の〈文鎮〉が触れ合うと、柔/冷の季語〈花の冷〉が現れる」と。なるほど、うまいことをおっしゃる。もうそれ以上をいうことは蛇足になってしまう、いやかえって鑑賞の邪魔をしてしまうとおもいつつ、わたしはこの一句で、小さい頃お習字を習っていたその状況を思い浮かべた。お習字をする用紙のしたには、やわら かなフェルトの布をあてがって、墨がしたに沁みても大丈夫のようにしたのである。おおかた緑色が多かった。そのフェルトの上にお習字の紙をのせ、15センチくらいの鉄製の棒状の文鎮をのせる。そうするとお習字の紙が落ち着いて、心も落ち着く。で、一気に筆をおろす。「花の冷」の季語が、巧みだ。緑色のフェルト、白い紙、黒い文鎮、そこに淡いピンクの桜色がみえる、「花の冷」で心が締まる。この一句のあとに、〈春雨や身ほとりのものみな無音〉という句があって、春のもつしっとりとした静けさが二句を支配している。 襞といふ濃く深きもの春思にも 自選句のひとつ。そしてかな文さんは、「着物にせよ肉体にせよ、〈襞〉とは実に艶っぽい。〈春思〉にも妖艶さが及ぶ。」と。なるほど、そうか、とわたしは思った。というのは、この句「春思」でなく「秋思」の方が、合っているのではないかってまず思ったのだ。秋は日ざしが濃く、物の陰翳がふかくなる。なにゆえ「春思」なのか。かな文さんがいうように「春思」の方が、妖艶で肉感的でもある、たしかに。そうして、しばらく眺めているとこの句の向こう側に、春のアンニュイが顔をだしたのである。春の倦怠をまとったおもたい「思い」であり、「襞」である。秋思いじょうにのがれられない重くれた「春思」であることに気づいたのだった。 ほかに〈花万朶満たさるるとは息苦し〉という句もある。 杉の葉にまづ火の走るどんどかな 句集の終わりのほうにおかれた一句。さりげない句であるが、好きな一句だ。「どんど」の行事を詠んだもので、上5中7の「杉の葉にまづ火の走る」の措辞がいい。さっぱりとしていて勢いがあってお正月の行事のめでたさがある。そして、何よりもいいのは「杉の葉」を焼くときのいい匂いがまずしてくることだ。今もうすでにわたしにはその匂いがたちこめている。ああ、なんとも良き匂い。。景もよく見えてくる一句である。 校正スタッフのみおさんは、「〈風船を吊りて町家のラジオ局〉がとても好きです。地元の小さなFM局でしょうか。目に浮かんできます。」と。 幼いころから父に、「わが家の先祖は平家の落武者なんだ」と教えられてきました。真偽のほどは相当怪しいものですが、自分達の代で飛驒を出た両親は、毎年私と弟を連れ、祖の地に帰り、植林の手入れをしたり魂迎えの準備をしたりしていました。飛驒と言っても最北の、峠を越えれば越中に入るという山深い地でした。すでに集落の跡形もない山中の小高い丘の斜面には、石ころのような墓標が点在し、そのひとつひとつに母と花を手向けた記憶が、今も鮮明に残っています。 〈笹百合や落人を祖と唄ひつぎ〉こう詠んだ折、幸運にも「濃美」主宰・渡辺純枝先生の選評を賜りました。「……(略)私が不思議なのは、落人として都を追われた人々が、いまだに落人を誇っている事だ。その上都を懐かしむような踊りや唄まで伝えている。笹百合は次第に姿を消しつつある楚々とした花であるが、落人の人々はしっかりと後世に残ってゆくだろう」この選評で、父の小さな誇りが報われた気がいたしました。笹百合は地中で何年も芽出しを待ち、ある年突然にその姿を森の中に現します。笹百合の孤高を思い、かつての都人に重ねました。 商家に嫁ぎ、駅前の雑踏にまみれて毎日を過ごす日々にありながら、若いころから自然への回帰志向が強く、休日には野山で心を遊ばせて来ました。山河への憧憬や雪への執着、また食の嗜好など、間違いなく「飛驒びと」の血をこの身に感じ、その感覚を大切に胸に抱いてまいりました。 加藤かな文先生には深く心に触れる序文を頂き、自分では気づかなかった自己の基軸にまで光を照らしてくださいましたこと、身に余ることと厚く御礼申し上げます。そして渾身の帯文でわたくしをここまで導き、描いてくださいました渡辺純枝先生には、胸を熱くしております。本当にありがとうございました。未知の「私」を求めて新しい扉を開けることを、遠つ祖が背中を押してくれそうです。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 装釘は君嶋真理子さん。 すっきりと品格のある出来上がりとなった。 タイトルは金箔。 ちょっとわかりづらいが、笹百合の蕊にも金箔がおされている。 これは、関谷恭子さんのご希望だった。 花紺の布クロス。 金箔が美しい。 花布は金、栞紐は白。 幻なのか。道に迷って山の中を歩き続けたら、急に視界が開けた。地図にない集落があり、名前のない人々がひっそりと暮らしている。そうやって私は恭 子さんの俳句と出合い、その声を聞いた。読者のみなさんの耳にも、恭子さんの声が届くだろう。その俳句に出合えるだろう。 (加藤かな文/序) 上梓後のお気持ちをうかがった。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? 愛おしさで胸がいっぱいになりました。その反面、面映ゆいと言いましょうか、どうしましょう?とオロオロもしました。 (2)初めての句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい 「句集名は『落人』に」と告げると、近しい人たちが明らかに怪訝な顔をするなかで、渡辺主宰だけが「あなたの根幹はそこだと思う、『落人』でいきましょう」と言ってくださいました。その言葉を心礎として揺らぐことなくこれまでの「私」を語ろうと思いました。期せずして加藤かな文先生の序文に「自分を語らない」俳句だ、とあり、より一層「私」を語りつくさねば、との思いに突き動かされました。 また、人生の第2ステージをいかに生きるか、を模索しておりましたので、このことが今後への助走になれば・・・との気持ちで向き合いました。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 句集を纏める、と決心し、少しずつ歩み出すなかで、徐々に俳人(の卵?)としての自分が導かれ成長していく感覚が得られ、貴重な体験をいたしました。ここからが新たなスタートだ、と身震いしております。 平凡な句柄だな、と迷った時期もありましたが、それが私らしさかもしれません。そこに何が加わるのか、自分でも楽しみでなりません。 関谷恭子さん。 ご上梓おめでとうございます。 お気持ちにこれからの気合いを感じました。 さらなるご健吟をお祈り申し上げます。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 除雪車の響きゐてまだ見えて来ず 関谷恭子
by fragie777
| 2024-04-09 20:35
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