カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
3月29日(金) 旧暦2月18日
名栗の空に咲いていた桜。 東京のソメイヨシノはまだこれからのようだ。 今日は夕方から出かけるので早めブログを書いておこう。 「現代詩手帖」四月号で、安里琉太さんが中西亮太句集『木賊抄』をとりあげて評をしている。 おなじ時期に刊行された浅川芳直句集『夜景の奥』とともに。 抜粋して紹介をしたい。タイトルは「二冊の志向するところ」 (略)いずれも第一句集で編年体を採用しており、途中から志向する書きぶりに変容が見られる。(略)前者(句集『木賊抄』)がなるべく面白くなりすぎないように無欲な写生を試みる他方で、後者は対象の生や実感をなるべく力強く摑みとろうと、劇的な場面や瞬間を捉えようとする。感動の核とでも言おうか、そういうものを伝えようとするのである。 『木賊抄』〈蟷螂の喰みたるものを抱き直す〉〈掌にふくらんでくる若葉かな〉〈竃馬ごんと襖を打ちにけり〉〈茶の花や粘りて落つる雨しづく〉〈選定の梯子がすこし木に遠く〉〈こほろぎの髭の地面についてをり〉蟋蟀の髭が地面についていることを伝えたいのではなかろう。蟋蟀の髭にフォーカスする視界からは、あらゆるものが普段とは別の手触りを持って異化されて立ち上がってくる。これらの句はものと向き合うことへの志向から得られた佳作であろう。 〈一本は海に吼えたる黄水仙〉『夜景の奥』。景としては黄水仙がひとつだけ海に向いていたという何気ないものだろう。だが、「吼えたる」という比喩によって黄水仙の口を開いたさま、あるいは華奢ではない、海沿いに猛々しく育った野生の感じが劇的に書き出されている。〈白ばらへ雨の垂直濁りけり〉の書きぶりも、仮に「白ばらへ垂直の雨濁りけり〉と比べてみれば、白ばらと雨の垂直が白濁りする把握を前面に押し出しているわけで劇的だ。 おなじく「現代詩手帖」の神尾和寿さんによる「詩書月評」では八木英之『てのひらにいっぱい』が評されている。こちらも抜粋で紹介したい。 『てのひらにいっぱい』に漂っているおかしみには、慎み深さがある。その点が個性的だ。基本的に生活場面を描きながらも、何かが、どこかで、ズレているように感じられる。そうした微妙な味わいは、表現力の高さから生まれるだけのものではなく、きっと、八木の生きる姿勢にも関わっているのだろう。(略) 招待状 二の腕はどこかと問われて、肘(ひじ)を折って数えてみる。 肩からおりるか、手からのぼるか。一巻をとばして二巻 は読めず、一階のない二階屋では寝返りも打てない。折 られた肘も困ってしまう。 あなたの腕に触れるのは、じかに素肌に触れるのは、 座布団に座って雪原を滑るようなもので、とてもとても のんびり茶など飲んではいられませぬ。ついでに蜜柑が こぼれたら、誰が拾ってくれるのでしょう。 かつて師が点(た)ててくれた茶の香り。親の顔より忘れが たく、すれ違いざまに二の腕から香っても、きっと驚か ずにいたいのです。 婚礼の席で見たのが最後とは言わせない。新茶をいれ て待っていますから。 これから出かけます。 午前中はあんなに激しかった雨もやんで、 午後からは嘘のように晴れ上がった。 出かけるには最適。。。
by fragie777
| 2024-03-29 18:00
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||