カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
3月27日(水) 旧暦2月18日
![]() 歩いて仕事場へ向かおうと玄関を開けたとたん、目に飛び込んできた日向水木。 今年もきれいに咲いている。 土佐水木よりこぶりで花も可愛らしい。 やさしい黄色である。 そんな水木の花を見ながら急ぎ足で仕事場に向かったのであるが、しばらくして気づいたのである。 眼鏡をかけることをわすれ、マスクも忘れた。 いいか、って思ったが、眼鏡は必要だ。 すぐに引き返して、家の中でバタバタとして、結局自転車に乗って仕事場に行くことになったのである。 今日は大分あたたかく自転車に乗るのはわるくない。 音楽を聴きながら向かったのであるが、途中左耳のイヤフォンを二度落とし、 結局右耳のみで聴きながら自転車をこぐことに。 昨日は俳人・原田喬の忌日だった。 ![]() 『原田喬全句集』 46判上製カバー装 408頁 季語索引 初句索引 父・原田濱人によって俳句の手ほどきをうけた原田喬は、戦後三年間の過酷なシベリア抑留生活後に加藤楸邨に出会い俳句に開眼する。父・濱人を誇り、虚子を敬愛する一方、楸邨を生涯の師と仰ぎ、生活者としての足場を大事にしつつ限りなき高みをめざした孤高の俳人である。(帯文) 初蛙眠る子の指少しひらく 原田 喬 ふらんす堂からは、原田喬のエッセイ集『曳馬野雑記』を1992年に刊行している。 なつかしく思って開いてみた。 原田喬が俳誌「椎」に連載したものを一冊にまとめたのだった。 そこに、父・濱人宅をおとずれた虚子についてのエッセイが掲載されている。「柱に登ってから」というタイトルのものだが、阿波野青畝も登場し興味深いものであるので、本文よりわずかを抜粋してみたい。 私は昭和六年から四十二年までの三十六年間は、父母と同じ家に住まなかったもで、父母の口から直接青畝さんと呼ぶ声を聞く機会は少なくなった。しかし、昭和三十二年頃から俳句一本へ打ちこむようになって、私の思いはあらためて青畝さんへ復っていった。それでも俳誌などで青畝さんの作品をときどき読む程度にとどまっていた。 ところが、こんな青畝さんが突然私の目の前にその姿を現したのである。それは昭和三十八年父が『定本濱人句集』を出したときである。あとがきに青畝さんの「その頃の思ひ出」があったのである。 「忘れもしない、柿畑の中の濱人居を。その日先生はいとも慇懃に虚子師を接待してをられ、私は身を固くして見守つてゐると、喬ちやんといふ先生の坊つちやんが出てきて取合の柱にとりついてよぢ登つた。どんなものだといふ顔をして威張るのを虚子師が笑つて見てをられるのに、濱人先生は恐縮して喬ちやんを叱られた。けれども一座の空気はこれでぐつと和やかなものになつた。 客を喜びて柱に登る子秋の雨 虚子 私は記念に右の短冊をいただくことができた」 これがその一節である。大正六年秋、大和郡山でのことである。 私が虚子さんの前で柱に登ったことは父母がよく記憶していて、私が俳句をやるようになってたしか父から聞いて知った。だが、このことを、当時畝傍中学校の学生であった青畝さんが憶えていて、しかもそのことを何かの因縁のように心にうけとめているとは全く思いもよらぬことであった。私は心底おどろいた。わたしの驚きはしかもそれだけにとどまらなかった。 この原田喬のおどろきは、さらに虚子がそのときのことを憶えていて、濱人にあてた葉書に「あの柱に登る子は、もう幾つになられましたか」と聞いているのだそうである。そのことを原田喬は父・濱人がなくなったあとに知るのである。そして「虚子さんはこの葉書を書いた翌年に亡くなったので、あれは父への最後の音信であったと思う。」と記している。 装釘は千葉皓史さんである。 千葉さんと原田喬さんは面識はなかったが、千葉さんの質朴な装釘はこのエッセイ集に合うのではないかとお願いしたものである。 そして、原田喬さんはとても気に入ってくださったのだ。 懐かしい一冊である。
by fragie777
| 2024-03-27 18:44
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||