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3月26日(火) 旧暦2月17日
木五倍子の花(きぶしのはな)。 神代植物園にて。 涼やかに揺れていた。 新聞記事を紹介したい。 23日付けの讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」に中西亮太句衆『木賊抄』より一句紹介されていた。 老鯉の椿を喰つてゆきにけり 中西亮太 「鯉が口を開くと、水に浮かんでいた赤い椿の花が流れこんで消えた。春の真昼の夢のように」と長谷川櫂さん。この鯉は錦鯉にまじっている真鯉とも長谷川さん。その方がはるかに赤い椿が鮮明だ。「老鯉」であるからきっと動作は緩慢だろう。大きな口をひらいて椿をたべるその動作がスローモーションの動画をみているように目にうかぶ。 今日も雨の一日。 しかもよく降る。 わたしは雨のなかを早足で銀行や郵便局をいったりきたりしたのだった。 新刊紹介をしたい。 A5判変形ハードカバー装帯有り 146頁 二句組 坪内稔典(つぼうち・としのり)さんの13番目の句集である。俳人としてよく知られておられる方であるが、坪内さんが本句集でかかれた略歴を紹介すると、1944年4月22日、愛媛県西宇和郡伊方町生まれ。2023年6月、ブログ「窓と窓」を中心に晩節の言葉を磨く場として「窓の会」を結成、主宰する。俳諧・俳句のコレクション「柿衞文庫」の理事長。市立伊丹ミュージアム名誉館長。大阪府箕面市在住。とある。「船団の会」を率いて長い間俳句活動をやってこられ、それを終刊にされたのであるが、昨年より「窓の会」を結成されたのだ。「晩節の言葉を磨く場」というのがいい。「晩節(ばんせつ)」という言葉の様子と響きがいいって思う。奥行きと重さがあって、熟成された感がある。 といっても、坪内稔典(ねんてん)さんは、言葉の垢を身に付けず、つねにしなやかに軽やかにあろうとする俳人である。しかつめらしい顔をせず柔軟に言葉によりそい、言葉をすくいとる。そこで生まれた俳句はおおらかに楽しくわたしたちの身に寄り添ってくる。 常に他者にむかって開かれた言葉だ。 本句集の担当はPさん。 好きな句をあげてもらった。 ころがしておけ冬瓜とこのオレと どの窓も山へ開いて柏餅 ヒヤシンス窓に接岸して開く 雲は秋あんパン一個と自己愛と 岬まで行く日朱欒に指立てて ごろごろと遠雷ころころと心 どの窓も夏へ開いて岡崎城 ころがしておけ冬瓜とこのオレと 帯にも横たわるようにしてあげられている一句だ。担当のPさんが帯に選んだということだから、Pさんはとくに好きな一句なのだろう。インパクトのある一句であり、命令形ではじまるのもおもしろい。何を転がしておけっていうのか、と思えば、冬瓜と一緒に「このオレ」をという。冬瓜はわかる、が、「このオレ」がなんとも人を喰っている。オレを転がしておけといったい誰に命令しているのか。「ころがっていよう」ではないのだ、「ころがっていよう」ではつまらない、なんとも自己へのべたべた感があり、冬瓜との関係も緊張感がない。この句には、自己をみるもう一つの目があってその距離感がおもしろい。そしてその自己への見据え方が冬瓜と等価なものとしてある。この句にあっては「冬瓜」も「このオレ」も「ころがしておけ」と命令する自身も気持のよい緊張感のなかにあってそれぞれがその存在を嫌味なく主張している。「冬瓜」であることも、媚びがない。腹をくくった気持ちのよい気配といったらいのだろうか、そんな空気が支配する一句だ。 雲は秋あんパン一個と自己愛と あんパンシリーズ(?)のなかの一句だ。「あんパン」の句がたくさん出て来る。掲句はその二番目の句である。最初は〈あんパンと連れ立つ秋の奈良あたり〉。いろんなあんパン、たとえば言い寄ったりすあんパンとか、そういうあんパンもあって、あんパンと作者はただならぬ関係にあるかのごとく、あんパンは登場する。掲句は、秋空のなかのあんパンである。天高く爽やかな秋の空に雲がうかび、そしてあんパン一個を携えている。うまそうである。それだけならば、食欲の秋を象徴するような美味しいあんパンが見えてくる。しかし、下五でややトーンが変調する。「自己愛」はちょっと予測しなかった。あんパンの軽やかな甘さではすまず、もうすこししっとりとあんこもやや重さをます。この「自己愛」という言葉によって、あんパンにもわずかながらのしょっぱさや苦さのようなものも加わわってくる。しかし所詮はあんパン。愛おしいあんパンと思ってかぶりつくのである。〈あんパンと孤独があって窓は雪〉という一句もある。 しっぽまで赤くて人参身がもたん この句は、作者が帯に「ある日の自選句」にあげている一句だ。(このある日の自選句っていうのもおもしろい)だから、今日の自選句ではないかもしれないけれどってお断りして、紹介したい。人参になりかわってその心を吐露しているようでもあり、人参を見ながらその気持ちを憶測しているそんな一句である、とは、誰もが思うだろう。本句集に「にんじん」の句は多い。〈友だちはいない人参だけはある〉という句も。人参と作者は心情的きわめて近い関係にある。このブログでも紹介したが、詩人の一色真理さんは、この句をあげて、「著者自身は本句集の心境を「気まま」と記しているが、私には痛切な孤独を感じさせる句集だった。」と記し、ルナールの「にんじん」を想起させる句集であったと評している。思いもかけない評であったけれど、鋭い評だ。本句集には「孤独」という言葉がひそんでいる。大好きなあんパンのそばにも孤独がある。 そら豆を焼いて夕べの明るさよ わたしの好きな一句である。さりげない一句であるけれど、「そら豆」らしい一句と思った。わたしもときどきそら豆をやく。焼いて粗塩をふって食べるとおいしい。暗くなっていく夕べであるのに、そら豆をやく夕べはどこか明るい、そんな気配を感じさせてくれるのが「そら豆」である。「そら豆」の言葉の響きのかろやかで明るいこと、そしてこの一句において「ア行」の音が効果的に配されて、句を晴れやかなものにしている。そう、そして一句がとてもやさしい響きをともなって口をついてでてくるのだ。ほら、すぐに覚えてしまうでしょう。 茄子洗うきゅきゅっと水が寄ってくる この一句もよくわかる。坪内さんは野菜好き? 野菜の気持ちに通じているような、無理なく野菜たちが寄り添っている。掲句の「きゅきゅっと」という措辞はわかる。しかし、「水が寄ってくる」には、意表をつかれた。そうして、ひどく納得した。茄子やそら豆や人参などの野菜への思い、それは小さな頃から坪内稔典という人間のかたわらに親しく寄り添うものとしてありつづけきた。いや野菜のみならず、この句集には、青蜜柑や林檎などなどの日常に身近にある食材などが、たくさん登場する。愛おしい食べ物として俳句に詠まれるのみならず、もう少し形而上的な味付けや擬人化をされて登場する、それがおもしろい。あんパンしかり。〈あんパンはくすっと笑う窓は雪〉〈デコポンはころがる愛はすっと立つ〉等々。 七〇歳で大学を退職した私は、時折、リスボンの靴屋の裏へ行き、気ままに過ごしてきた。その気ままな気分がもしかしたらこの句集にあるかも。ともあれ、私は現在七九歳、気ままさが日々に増す感じがしている。気ままというより耄碌かもしれないが、ままよ、リスボンの空は今日も青い。 「あとがき」を抜粋した。 装釘は和兎さん。 パール箔を効果的に使っているのだが、写真ではまず分からない。 それが残念。 花布は、見返しとおなじオレンジ系に。 余白をいかした組み。 栞紐は白。 リスボンの靴屋の窓かヒヤシンス リスボンのコメルシオ広場のそばに小さな靴屋があって、その靴屋の裏のホテルに泊まっている。ホテルというよりも下宿屋と言うべきか。ついさっきまで靴屋のオカミさんが来ていて、エドワード七世公園の見どころを話してくれた。今日はこのあと、その公園へ出かける。靴屋の大学院生の息子は日本語の勉強をしており、彼に連れていってもらうのだ。このホテル、実は靴屋がオーナーである。(あとがきより。) 担当のPさんは、 造本は句集『水のかたまり』と対になるように、という坪内先生の希望でした。 世界とつながる「窓辺」がお好きなのかも、と句集を読んでいて思いました。 どこか孤独なさみしさを抱えながら、それでもあんパンとカバと友達を大切にどこでもいつでも俳句を詠んでいる坪内先生を思いながら作りました。 ということである。 人はみな誰かの死後を生きて雪 坪内稔典
by fragie777
| 2024-03-26 19:48
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