カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
3月4日(月) 旧暦1月24日
矢川緑地の目白。 たくさんの目白があちこちに見られた。 空も青かったな。。。 昨日は雛の日であったけれど、お雛さまも飾らず、雛祭りらしいことはほとんどしなかった。ただ、あえて言えば、夕食にワインをロゼにしてちょっと華やいだ気分にしたことかしら。。 この世にピンク色のワインがあるって、たまに知ることも悪くない。 昨日3日づけの毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、福島せいぎ句集『箱廻し』 より。 鼻欠けの官女もゐたり雛の家 福島せいぎ 「何度も出し入れしている間にちょっと鼻が欠け、それがかわいい今日の句のひなたち。」と坪内稔典さん。お雛さまが話題になると。わたしはわが家のお雛さまを思い浮かべる。押入の奥深く仕舞われたままの雛さま。ごめん。。。。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯有り 254頁 二句組 本文二色刷り 限定600冊署名入り 高橋陸郎さんの前句集『十年』(2017年刊)につぐ新句集である。漢字をすべて旧漢字表記とし、全体を12の章に分けている。その項目に目をとおしただけでも句の世界のかもしだす匂いに読者は引き込まれていく。栞は、堀田季何さん、小津夜景さん、岩田奎さんの3人が寄せている。 お断りしておきたいのだが、旧字表記がこのブログではかなわない部分が多く、可能な限りの旧字表記とさせていただきたい。 集名は「花や鳥」 花や鳥この世はものの美しく による。 本句集は読み応えたっぷりであり、高橋陸郎の俳句世界を堪能できる一冊であり、さらに若い精鋭俳人による栞付きである。 この人選も高橋さん自らの希望によるものである。 この人選は新鮮であり、本を手にとった読者の方はいったいどんな「読み」が展開されていくか、きっと興味をもつことだろう。 それぞれ抜粋して紹介をしておきたい。(ほんの少しなので是非に全文を読んでほしいとおもう) 堀田季何さんは、「睦み合うもの」というタイトルだ。 睦郎の到達点にして、また一つの出発点である。芭蕉の為事を尊敬しつつ、今なお一代の為事を志す。 小鳥來よ伸びしろのある晚年に 雪の香の立つまで生きん志 雪頻れ逹磨俳諧興るべう 睦郎は、伸びしろを信じ、生き、詠い続ける。習うべき手本がある自由も、手本に縛られない自由もある。難解さを恐れずと、跋で示した覚悟は、定家の達磨歌ならぬ達磨俳諧を自ら興すくらいの気概であろう。 小津夜景さん、タイトルは「罔兩(まぼろし)を舞う人」。 古典の香りを堪能できる句集でした。表現は優雅、季語のあしらいは和歌的で、俳句結社で学ぶ骨法とは一味も二味も違う。造語的な言葉遣いも少なくありません。(略) たぶん、高橋さんは、言葉と舞い遊んでいるのでしょうね。しかもその言葉というのがただの道具じゃない。人間と共鳴する別個の生き物そのもの。それで、高橋さんの口から言葉がこぼれるたび、美しい妖怪たちが転がり出すみたいにみえる。かつて、歌人の小池純代が自らの作品を、なにものかが一瞬にして脱ぎ捨てていった殻になぞらえ、あれこれ脱ぎ散らかしてどこかへ行ってしまったその連中を「雅族」と呼んだことがありましたが、私はこの句集にも同じような、気品漂う妖怪たちの気配を感じます。 襤褸市に梵論字(ぼろんじ)見しか罔兩(まぼろし)か 岩田奎さん。タイトルは「のびしろ」 弖(て)爾(に)乎(を)波(は)の弖と波大切初懷紙 なぜ、弖と波がことさらに大切なのか。いまさらに文法書を持ちだすつもりもないが、爾と乎は格助詞であり、いわば言語の静的な構造や機能を決定する。それに較べ接続助詞の弖と係助詞の波に意味伝達上の必要性はとぼしく、言語にそれぞれ展開と緊張を与える。この、次の瞬間へ向けてみなぎり張りつめるという感覚が、高橋の俳句世界にほの見える詩的艶めきをもたらすように思う。 花や鳥この世はものの美しく したがって、たとえば「この世のもの」というような案はありえまい。この世以外の場所を基本に据えた強意の「は」が、篇首に睨みをきかせる。約束された永遠を拒絶して常世を離れた事物のみが、この世につかのま存在し美を謳歌することをゆるされる。 高橋陸郎さんの「跋」をまず紹介しておきたい。高橋さんの俳句観が冒頭に記されている。 少(わか)く俳句なるものに出會ひ、七十餘年付き合つてきて言へることは、俳句はこれこれの詩・しかじかの文藝である、と規定または言擧げすることの虛しさだ。十七音を基本とするたぶん世界最短の詩型といふのは、客観的な事實の範囲だからまだよい。最短の詩型を形式の上で生かすのが切れ字であり、內容の上で支へるのが季語であるといふのも、芭蕉の遺語「發句も四季のみならず」「無季の句ありたきものなり」といふ保留付きで、とりあへず許容範囲だらう。しかしその餘は虛子の「花鳥諷詠詩」にしても波鄕の「俳句は私小說」にしても、その人その時の門下か仲閒內での敎條か合言程度と合點しておけば足りよう。 そして、「芭蕉は敢へて俳諧の定義も、發句の定義も積極的にはしなかつたやうに思ふ。」と記す。 跋を読みすすでんでいくと、やはり高橋さんの念頭にあるのは、芭蕉なのだということがわかる。 わたしが本句集を拝読して感じたことは、高橋陸郎さんという表現者は、自身にまつわるあらゆるものを闊達にして頑丈なる歯で噛み砕きそれをおのれの詩囊でふくらませ表現するということだ。本句集は彼の古典への造詣もたっぷりとあり言葉のもつ奥行きなども理解を要するものがあるかもしれない、しかし、誤解をおそれずにいえば、ある意味なんだって句にしてしまう、そんな表現者としての貪欲さをわたしは感じたのだ。そしてそこには彼のなかで長い時間をかけて培われてきた美意識や虚無や人間愛(?!)などが貫かれている、そんな風におもったのだが、どうだろうか。 たくさんの句にたちどまったが、わたしがおもしろいとおもった句をいくつかあげてみたい。 へえー、それか、とか、そこにいくか、なんて思ってくださったらわたしは嬉しい。 高橋陸郎さんは、わたしのへんてこな評に顔をしかめられるかもしれないけどお許しを。 煮大根の羊羹色や冬深む うまそうな大根である。羊羹色がいい。たっぷりと煮染められた大根であるが、羊羹色によって眼の前にリアルに現れた。季語「冬深む」が大根のうまさを決定した。しいんと寒さばかりがこたえる夜にこの羊羹色の煮大根をつつきながら、熱燗で一杯なんてあったまるだろうなあ、羊羹色がさらに身体をあったかくしてくれる。こんな鑑賞をすると、yamaokaはさぞ酒飲みなんて思われてしまいがちであるが、残念ながら煮大根で熱燗をという願望はまずない。さらに煮大根を炊きあげるなんてことも金輪際しない不調法ものである。わたし思うに、きっと高橋陸郎さんは、煮大根を羊羹色に炊くことに長けているのでは、、、と。 大いなる虛の人思ふ日なりけり 「虚の人」とは高浜虚子のこと。この句の前に〈椿山ごと今朝の供華高虛子忌〉という句があってわかる。「跋」で虚子の唱えた「花鳥諷詠」について、「教条」か、「合言葉」程度と記して、やや突き放した言い方をしているが、しかし、高浜虚子という存在はあなどりがたい大きい存在なのだろう。「大いなる虚の人」という措辞が、いい。「虚」は「虚子」であり、あるいは虚子のなかにある虚々実々のもの、そして虚子という俳人がもっているはてしない時空、そんなところまで一日たっぷりと思い巡らしている、虚子への敬意に満ちた一句であると思った。椿山で眠る虚子へ桜山にいる高橋陸郎からの挨拶句とも。忌日をこんな風に詠めることも素敵だ。 凍つる夜の白湯を甘しと陀羅尼助 「陀羅尼助」は、胃腸に効く漢方薬として有名だ。山桜で有名な吉野で売られている。わたしもいつも常備している。〈陀羅尼助の苦味親しよ寒に入る〉という句がつづく。「陀羅尼助」まで俳句に詠んでしまうんだわってこの句を見たとき思ったのだった。高橋さんも陀羅尼助を愛用されているのだろう、きっと。掲句は、「白湯を甘しと」の中七が救いである。「凍つる夜」も「陀羅尼助」もツライ。白湯の甘さが胃の腑をやわらげてくれる。「甘しと」の「と」が人間の肉体でいえば「臍」のような要であるとおもった。 昨日⻝ひ今日啜りけり柿の秋 〈荒淫に似たり熟柿に執着す〉という句がこの後につづき、なんと健啖家の高橋陸郎さんであることよ、と。そしてすぐにおなじく柿好きだった健啖家の子規が思い起こされる。子規にまけずおとらず柿好きなのだろう、陸郎さんは。昨日たべた柿はやや硬めで歯ごたえがあり、今日食べている柿は熟柿である。そのどちらも堪能する作者がいる。この句「柿の秋」の季語によって、この「昨日」と「今日」が、何度もくりかえされていくことも予想される。「柿なりき」であったら一回性のものとしてあるが、「柿の秋」によって、しあわせな執着の日々が眼の前にひろがっていくこととなった。 小鳥來よ伸びしろのある晚年に この句、すごく好きな句である。栞を書かれた岩田奎さんが、「のびしろ」というタイトルにして、栞文のおわりにも引用しておられる。高橋陸郎という表現者の、人生に対する、また人間に対する能動的な姿勢が見えてくる一句だ。「小鳥来よ」という上五がすごくいい。R女のyamaokaとしては、ときどき呟いて自分をはげましたい一句である。 本句集は、というより高橋陸郎さんの俳句は、あらゆるものへの、森羅万象、歴史、古典、死者、生者、彼をとりまく生きとし生けるもの、そして彼にかかわる有形無形のものすべてへの挨拶なのではないだろうか。そしてその底にあるものは、「愛」なのではないだろうか、とわたしは思ったのだ。おそらくその「愛」は、ある「虚しさ」をかかえ込みつつそれをねじ伏せて生きてきた高橋陸郎という人の根幹をささえるものではないだろうか。 と勝手に申しあげてお許しを。。。 ほかに、 人踏みし春も茫茫象老死 (大往生はな子に旧悔あり) 身心の古び新たや大旦 ⺼光ゲの積るは皓し雪よりも 炎晝の人ごゑ若し通り過ぐ 夕時雨芯に火の在り走り過ぐ 山吹は白一重こそ昧爽(よあけ )こそ 朙日のこと死の聲に聞け能始 今朝外に立つ不審者を春といふ アイロンの舳先うつくし遠卯波 春惜む綾取りの橋壞しては 鷄頭のいうれい立てりあの邊り (子規庵立冬) 今日おこなはれてゐる俳句の原型を作つたのは、いふまでもなく芭蕉である。しかし、今日一般的な平朙な只事句と芭蕉の句と、なんと相貌を異にしてゐることだらう。芭蕉の句の魅力はしばしばその意外な難解さと不可分だ。むろんそれは意圖された難解さではない。創始者ゆゑの止むをえざる發朙の試行錯誤から生まれた、止むをえない難解さといふべきだらう。芭蕉一代の表現行爲を繼承しようと志すなら、その爲事を尊敬しつつ、各人自分一代の爲事を志さなければなるまい。そこに止むなく生じるかもしれない難解さを恐れたり、況んや忌避したりは禁物だらう。 「跋」を抜粋して紹介した。 本句集の装釘は和兎さん。 タイトルはツヤ消しの金箔。 用紙は金銀の箔をちらしたもの。 カバーの図版、 高橋陸郎さんが、和兎さんに語ったところによると、左の啄木鳥は「これがぼく」と笑いながら言われたとのこと。 いくつかの候補より高橋さんが選ばれた。 見返しは、カバーと同じ用紙。 扉。 すべての本にいただいたサイン、 これは黄色の色鉛筆で。 本文は二色刷り。 枠は桜色、 栞紐は肌色。 花布は赤白のツートン。 枠の色、花布、栞紐、すべて高橋陸郎さんのチョイス。 栞は桜色に。 「古人の跡(あと)をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と言ふ。古人をさしあたり芭蕉と定めれば、「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」か。これをさらにたとへば『正法眼』に溯れば「而今(じこん)の山水は、古佛の衜現成(だうげんじやう)なり。ともに法位に住して、究盡(きうじん)の功德(くどく)を成(じやう)せり」。さらば 山や水有情無情や皆目覺む 「跋」より。 活字てふ文化滅びん夜の秋 これは人ごとならずわたしも思う昨今である。活字とは活版印刷につかわれた字のことである。がこの一句にはその文化をささえてきたもろもろの知の集成がほろびつつある、そんな嘆きも感じられる一句だ。活版印刷によって生み出された様々な書物、それらはすでに目にすることが出来なくなってしまっているものも多い。活版印刷のインクの匂い、それもまた忘れ去られようとしている。 うかがった処によると、高橋陸郎さんは、いまパリに行っておられる。 この句集の制作中にも、韓国へいかれたり、たいへん精力的であった。 きっと陀羅尼助を持参されてパリを楽しんでおられるだろう。 良きご旅を! そしてさらなるご健吟を! 雪の香の立つまで生きん志 高橋睦郞
by fragie777
| 2024-03-04 20:19
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||