カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
2月27日(火) 旧暦1月18日
給与支払いのてつづきをおえて仙川駅にさしかかったところ。 空が青い。 左手をみると、 おお、富士山だ。 わかるだろうか。。 こんな感じ。 以前は全貌がみえたのだが、高い建物ができてしまって残念。 天気の良い日など、富士山にきづくとちょっと嬉しい。 なんで嬉しいんだろう。 美しい姿だろうか。 ともかく今日は富士をみたぞ! 今日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、塙千晴句集『おかへりの声』より 夫の顔とつくり眺めのどけしや 塙 千晴 「よくよく見れば人間の顔は、作者の夫にかぎらず誰でもおかしなもの」と長谷川櫂さん。 俳誌「鬣」90号を送っていただく。 第22回鬣TAYEGAMI俳句賞の発表があり、 が受賞された。 この度の授賞については、「鬣」代表の外山一機さんが「鬣」に詳しく書かれているのでお読みいただければとおもう。 ここでは抜粋にとどめる。 句集『ぼうぶら』については、 (略)若い書き手をとりまく現在の状況を考えれば、たしかに小山の行く道には俳壇的な困難が待ち受けているように思える。しかし、小山の志はすでにそこにはないのだろう。そして何より、この句集自体が、有季・無季を超えたところで俳句形式を認識しようとする小山の志と、それを一句として実現しうる才能と示している。 句集『雲』については、 一九冊の句集に加え、句歌集、句文集、さらには藤原月彦との共著『夕月譜』、個人誌「GA」の発行など、秦は晩年に至るまで書き続け、そして世に問うてきた。書き続けることで自らの美的世界を前に推し進めてきた稀有な作家だったのである。その意味では「雲」上梓と同時にその死を迎えたことは、やや見事すぎたかもしれない。 小山と秦は、年齢こそ大きく異なるものの、その作家としての姿勢には共通するところがある。すなわち、俳句を自明視するのではなく、自らの認識と思考のもとに形式とわたりあい、俳句の現在を見出そうとする投企的なありようである。 受賞された小山玄紀さま。 おめでとうございます。 こころよりお祝いをもうしあげます。 秦夕美さんが生きておられたら、どんな反応をなさったかなあ。 ちょっと嬉しそうにちょっと照れくさそうに喜びの電話をくださったかもしれない。 この「鬣」では、ふらんす堂よりの刊行物五冊が書評のとりあげられている。 ここでは、とりあげられた著書と評者のみ紹介しておきたい。(敬称略) 仲寒蟬句集『全山落葉』評/九里順子 川森基次句集『暗喩さみしい』評/西躰かずよし 高橋修宏著『鈴木六林男の百句』評/水野真由美 五島高資著『平畑靜塔の百句』評/吉野わとすん 内田茂著『蕪村の百句』評/池田 楠 午前中にひとりお客さまがいらっしゃった。 渡邊顕(あきら)さん。 俳号は「ありか・えばん」さん。 目下、第二句集の製作をすすめていて、本日は初校ゲラをもってご来社くださったのだ。 担当のPさんが対応。 (わたしもお話を伺いたかったのであるが、スタッフの給与はあとまわしにできず) 初学のころは「玉藻」で星野椿先生について学ばれ、 お仕事の都合で一度俳句を離れられました。 今度は、以前からご縁があった片山由美子先生の「香雨」に創刊から入会されたそうです。 とPさん。 ありか・えばんさん。 喜寿の記念に第二句集『長楽』を準備中である。 今日はバタバタとして失礼をいたしました。 つぎにいらっしゃるときには、ゆっくりとお話を聞かせてくださいませ。 名栗に咲いていた枝垂梅。
by fragie777
| 2024-02-27 18:48
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||