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2月19日(月) 雨水 旧暦1月10日
国立・谷保天神の白梅。 毎年、ここの梅は見てきた。 もう10年以上。 谷保天神にはたくさんの神鶏がいたが、コロナ蔓延期にいなくなってしまった。 わたしのお気に入りの「キング」と名付けた鶏もいたのだけれど。 どこかに収容されてそこで飼われているとも聞いている。 神鶏に会えないのはとてもさみしい。 今日は雨水である。 雨水とは「降る雪が雨へと変わり、雪解けが始まる頃のこと。 山に積もった雪もゆっくりと解け出し、田畑を潤します。 昔から、雨水は農耕を始める時期の目安とされてきました。」とある。 今日は雨が降っている。しかし、この週末は雨が雪になるかもしれないということ。ふらんす堂のスタッフたちは、戦々恐々としている。 雪はツライなあ。 『第14回田中裕明賞』の電子版が配信になった。 わたしもさっそく購入したところである。 →電子版 選考会のほか、吟行句会、授賞式、お祝いの会の様子がわかります。 受賞者の岩田奎さんが、田中裕明さんのお墓まで自転車をこいでいったときのお話など興味深いです。 新刊紹介をしたい。 四六判ペーパーバックスタイル帯カバー 194頁 二句組。 山下きさ(やました・きさ)さんの第1句集『水路』(2009年刊)につぐ第2句集となる。山下きささんは、1942年大阪生まれ。1998年「童子」入会、2009年に「童子」を退会して、2010年に「椋」に入会、石田郷子に師事。現在「椋」会員。俳人協会会員。本句集に石田郷子代表が序文を寄せている。 この十余年、山下きささんとどれだけ共に歩き、句座を共にしてきたのだろう。気が付いたら、吟行の仲間の一人にきささんがいらした。それくらい自然な出合いだったのだろうと思う。 そのためか、句集『年木』の作品の一句一句の背後には、私自身も歩き、慣れ親しんだ里山の風景が、限りなく広がっているような思いがする。 しかし、それらの句に立ち止まって風景の広がりを感じていると、どこか現実を超越した世界を覗いているような不思議さを感じる瞬間がある。 序文のはじめを紹介した。石田郷子代表は、集中の句をあげて、山下きささんの俳句について「懐かしい」と書く。 屋根替の茅太々と束ねあり 床の間に大黒様や冷し蕎麦 厨よりこゑせる秋の扇かな 徳利に屋号太々蚊遣香 立ち寄りて間口大きく月祀る 挙げたらきりがないのだが、とにかく懐かしいのだ。それは胸に迫るような懐かしさであって、「ああ、あの時ね」とうなずくような質のものではないような気がする。つまり郷愁ということになるのだろう。 石田郷子さんは、この「懐かしさ」をキイワードに句集『年木』を丹念に読み解いていく。 わたしは恥ずかしながら句集名となった「年木」なるものを知らなかった。 本句集には「年木」を読んだ句は二句収録されている。 十針も頭縫ひしと年木積む 家毎に年木積みある川ほとり 「年木」とは、「新年にたく薪」のこと。そして「年木摘む」とは「それを年内に切り揃えることをさす」と。「かつては新年を迎えるための重要な準備の一つであった」とも。要するに暖房がスイッチひとつでつくそういう暮らしではなく、薪を必要とするそんな暮らしである。序文によるとこの句は石田郷子さんがくらす名栗の「山雀亭」への挨拶句であると。山下きささんはそこで目にした風景を俳句にし、句集名としたのである。実はわたしも名栗へときどき遊びにいくが、「山雀亭」にはいつも薪がきれいに切り揃えてある。しかしわたしは年木という言葉も知らなかったのである。著者の山下きささんは、新年の季語を用いて何とも行き届いた挨拶をされている。 本句集の担当はPさん。 雪割草咲いて小さきお堂かな 春雷にひとかたまりの宿りかな 春雷とつぶやく病んでゐるごとく 梟や旅の枕の固くあり 蓬髪にいく度も手を八重桜 Pさんの好きな句をあげてもらった。 そして、「季語やひととの関係、詠み込まれた対象への優しい気づかいが、お人柄を髣髴とさせる優しさに溢れた句集です。」とPさん。 蓬髪にいく度も手を八重桜 おもしろい一句だ。徘徊味もある。八重桜というやや重々しい桜。見上げるとかむさってくるような存在感もある。八重桜をみあげつつ、乱れた髪であることに気づいたのだ。八重桜ってかたまりで人間にせまってくるようなところがあって、なんというか、乱れたさまはあまりない。びっちりと咲いてスキがない。それにしても我が髪のなんとも乱れていることよと慌てて手ぐしをしてみる。しかし、すぐに髪は跳ね上がる。あらいやだ、とふたたび手をいれる。まるで八重桜というスキのない桜へ挑戦しているかのよう。この句「八重桜」の重さが、蓬髪に手をなんどもいれるというやや軽い挙措に効果的でありちょっとユーモラスでもある。 子規読めばひときはなりし釣忍 これはわたしの好きな一句である。子規のものを読んだ心情を「ひときはなりし」と叙している。が、具体的な悲しいとかおもしろいとか怒りとか、そういう心情は語っていない。そこがいい。「ひときわ」とは一段とという意味があり、一段と何かを感じたということだろう。が、それ以上の具体的な心情を述べていない、そこには哀れさも通うような、あるいは驚きであったり悲しみであったり、子規にたいするこの作者の複雑なひと言では語り尽くせない深い心情がこめられている。そして「ひときわなりし」というやや明るさを感じさせる音の響きが「釣忍」の季語によって、心にある重さをもってズンと定着する。そんな一句である。子規への敬愛と慈しみをさりげなく詠んでいるが、味わいのある一句であり、「釣忍」が巧みだと思った。 忘るるといふは難し蒲団干す 序文にもとりあげられている一句。この句は作者像を呼び起こす。きっと物忘れなどなくて記憶力のよい作者なのだ。「忘るるといふは難し」という措辞に作者のやや屈折した思いを感じる。わたしは多くのことをきれいさっぱり忘れていく人間なので、ある意味忘れないでいるということは羨ましくも思うが、しかし、人間は忘れることができてナンボのものかもしれない。忘れないということは、ツライかも。この一句、「難し」に著者の鬱屈した内面が込められている。しかし、そんな内面をかかえながらも明るい陽光のもとに蒲団をほす、ヨイショって重たい蒲団をもちあげてベランダに放り投げるように干す。そんな行為にふっと慰められたりもする。ましては太陽の光をたっぷりすってふっくらとふくらんだ蒲団に頬を埋めたりすると、自身を束縛していたものから解き放たれてあたたかなゆったりとした思いに充たされる。そんな日常に慰められる作者がいる。 首振らぬ甘味処の扇風機 ちょっと笑ってしまった一句である。「甘味処」に友人と入った。餡蜜を注文、甘味処はたいてい小さなお店で昔風でいわゆる「フルーツパーラー」などとは趣がちがう。木の机に木の椅子。ちょっと狭くてにぎやか。そしてこの店にはおまけにクーラーがない。「あら、クーラーないのね」とか友人に言ったりして「餡蜜」を待っている。汗をふきながら、ふとみると扇風機はあるにはあるが、なんと古い扇風機で首をふらない、一直線に風をおくってくる。壊れてしまったのかも。(まあ)って内心思うが、どうしようもない。しかし、それをユーモラスに俳句にしたてた。そして「首振らぬ」「扇風機」にお返しをしたのである。 ほかに 湯たんぽの湯のたつぷんと運ばるる 雛の家の上がり框の高きこと メロディーのけだるさに脱ぐ春コート などなど、山下きささんの俳句には、すっきりと即座に景をきりとる気持ちよさがある。 『年木』は私の第二句集です。第一句集『水路』以降の作品三二三句を収録しました。 この間に飯能市名栗を吟行する機会に恵まれました。山あり渓あり、里山の豊かな自然に心を解放し鳥や草花と親しみ様々な季語に出会いました。また、椋の定点観測の吟行地、国立市矢川緑地、谷保・城山公園を毎月吟行します。少しずつ変化していく周辺の景色に寂しい思いをしたり新たに気付くこともあります。 これからも俳句と共に楽しく生きたいと五感を働かせて今日も歩きます。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装丁は和兎さん。 作者のきっぱりとして思い切りのよいそんな風情にふさわしい装丁となった。 グリーンと白の配合がなんともすがすがしい。 タイトルは艶消し金。 帯カバーをとれば、緑が印象的だ。 寒梅へ深き轍のありにけり 歩ける限りは歩き、句座を共にできる限りは顔を合わせて、許される限り、怠らずに俳句を作りたいと思う。 口に出すことはなくても、思うことは同じなのではないか。 この句はそんな作者の志を象徴しているように思えてくるのである。(石田郷子/序) 山下きささん。 ご来社のときに。 水澄むや膝の子に読むぐりとぐら 山下きさ きっと山下きささんにもそういう思い出があるのでしょう。 この一句、わたしも懐かしい一句である。 膝の子はずいぶん大きくなってしまったけれど、膝の上の重さの感触はまだ膝が覚えています。 そして柔らかな髪の毛のにおいも。 水澄む季節ならいっそうでしょう。
by fragie777
| 2024-02-19 19:12
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