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12月28日(木) 御用納め 旧暦11月16日
新宿駅で見上げた今日の空。 用事があってデパートの食品売り場に行ったのであるが、あまりの人の多さに辟易して、早々に引き上げてきたのだった。 食品売場の人気店は人が列をなしている。 まんべんなく、というのではなくて列をなす店とそうでない店の差があまりにも激しい。 人気店の品物がすこぶる突出して美味であるかと思えば、経験的にそうでもない。 結局わたしは若干お高めであるが、自分の好きな品物がある店をえらんだのだった。 そこの店の混み具合は?って。 ほとんど人はいなかった。 それほど高くないものを二つ買ったのであるが、どこぞの貴婦人に対するようにうやうやしく対応してもらった。 (混んでなかったからね) 今年最後の新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯有り 208頁 二句組 著者の伊奈治(いな・おさむ)さんは、昭和25年(1950)愛知県岡崎市生まれ、現在は安城市在住。平成18年(2006)「初蝶」入会。平成26年(2014)第1句集『安心』上梓、平成28年(2016)第2句集『空性』上梓。平成31年(2019)「鶴」入会。令和5年(2023)第64回安城文化奨励賞受賞。現在は、「初蝶」、「鶴」同人。俳人協会会員。 老後の業余にと軽い気持ちで踏み込んだ俳句の道であるが、早や十八年が経過した。顧みれば、平成二十八年第二句集『空性』上梓後間もなくして、田部谷紫編集長、小笠原和男主宰が相次いで亡くなった。突然羅針盤を失ったが、先師の説く『俳句は打座即刻、俳人は一日一生』を心とし、多くの俳縁を得乍ら、精進を重ねてきた。此処に、この七年間の三百数十句を第三句集としてまとめ上げた。 「あとがき」の最初の部分を紹介した。そして、句集名となった「共生」については、 書名の「共生(きょうせい)」は、異なる種や個体が互いに利益を得ながら共存する概念であり、生命の尊重と一体感や相互依存を象徴している。初学の頃を思い返すと、自然界の美しさや四季の移ろい、人との出会いが自分の心の中に深く刻まれていることに気付く。この十八年間、俳句は、私の内面と外界を繋ぐ重要な道具となり、自分と人や自然・神仏との共生の意識を少しずつ育んできた。 と「あとがき」に記されている。 「闘争」という言葉が胸をつきさしてくる今日、「共生」という言葉があったかと、あらためて目にし耳にした言葉のように響いてくる。著者の伊奈治さんが語る「共生」は、人間関係のみならず、自然、神仏との共生をも意味するようだ。そしてその「共生」を可能にするツールとして「俳句」があると。 本句集の担当は、文己さん。 形代にひら仮名で書くわが名かな 残暑いま指間零るる陀羅尼助 のどかなる余生の真中俳と酒 北風や昼一本のバスを待つ 立春大吉きのふと違ふ風に遇ふ 残暑いま指間零るる陀羅尼助 ちょっと変わった句とも。「陀羅尼助(だらにすけ)」がおもしろい。有名な胃腸薬であり、わたしも愛用している。桜で有名な吉野にある店から買っている。黒い小さな粒で、それをいっぺんに水で20粒ほどを服用する。名前がなんとなくかわいいので、同じような薬でももっぱら陀羅尼助である。実は昨夜の忘年会のあと、おおいなる飲食をしたので夜中にやや胃もたれで目が覚めた。(ああ、陀羅尼助を飲もう)って思っていて、起きあがるのが面倒でそのまま寝てしまったのだが、そんか感じで陀羅尼助はきわめて親しい薬である。この一句、夏のあいだに疲れ切った胃腸をいやすべく陀羅尼助を服用せんと袋からとりだして飲もうとしたのであるが、残暑の厳しさでやや朦朧としてその小さな粒がこぼれてしまったのだ。陀羅尼助というなにやら小人に名付けられような薬名がユーモラスで、まるで生き物のように指の間からこぼれていく様を一句にした。この句「陀羅尼助」につきる。 のどかなる余生の真中俳と酒 伊奈治さんはお酒が好きらしい。本句集にはときどきそのお酒好きが顔をだす。〈蕗味噌や李白と酌まん旅の酒〉〈鰭酒や手のひら舐むる粦寸の火〉〈稗の酒呷りアイヌの人となる〉それはもうたくさんあるお酒の句からほんの三句ほどをここに紹介した。「ましら酒」という章もあるくらいだ。掲句は、いまの満ち足りた心境を詠んだ一句だろう。伊奈さんの余生の中心は俳句をつくることとお酒をたしなむ(?)ことなのである。結構ではありませんか。もうこれまで十分に働いてこられたのであるから、おおいに楽しまれるのがよろしいのでは。「俳と酒」という下五が充足感を語っている。 世話役を譲る算段笹子鳴く 「笹子鳴く」がいいなあっておもった一句である。もう充分にお世話役ははたしてきた。このへんで誰かにゆずりたい、はてどういうふうに切り出すか、なんて人目をさけた静かなところで日向ぼっこでもしながら思案をしている。と、笹鳴きが聞こえてきたのだ。笹鳴きは独特の鳥声である。低くて耳を澄まさないと聞き逃してしまうような。しかも人の気配がするとすっと鳴き声が遠くなる。よほど静かに集中してその算段をしていたのだろう。「世話役「算段」「笹子」とサ行が効果的な一句である。 病廊を声過ぎ行けり春の闇 この句のまえに〈病室の窓に目覚めの桜かな〉という句があって、入院をされたことがあるご様子である。ゆえに掲句は、その入院中の一句。比較的明るい充足した俳句がおおいなかで、この句は暗さをともなった一句である。ベッドの上で病院の廊下を誰かが通っていく。「人」ではなく「声過ぎ行けり」という措辞に、神経が研ぎ済まされている様子が感じられる。そして「春の闇」。この闇は物理的な暗さというよりも自身がおかれている心情的な暗さと不安が導き出した「春の闇」だ。声もまた「春の闇」に吸い込まれていってしまう。。 雁が音や団塊世代老い知らず 作者が自選にあげている一句である。伊奈治さんはいわゆる「団塊の世代」である。わたしもそうなので、この句わかるような。「団塊世代」は総じて別の世代、あとからくる後輩世代に鬱陶しがられる。私も自分のことはよう分からないけれど世代を同じくする他者にふれたときに、(ああ…)って思う。でもそれ以上は言わないわ、ここでは。「老い知らず」とはよくわかる。その元気さが鬱陶しいのよ。ちょっと空回りしたりして。伊奈治さんは自身が団塊の世代であることの意味をよく客観的にとらえていると思う。この一句の奥深さは、「雁が音や」の上五である。季語の「雁が音」は雁の鳴く声であり古来より人々に賞されてきた鳴き声であり深い情趣がある。しかし今はあまり聴くも少なくなったという。その「雁が音」を上五におくことで、老い知らずの元気な団塊の世代がやや滑稽でややもの悲しくみえてくる。団塊世代である自身への自嘲の句でもあるのか。 手を振つてひとりに返る三日かな 五年間の海外駐在を終えた息子夫婦が、二人半の子宝を携えて、年の瀬に帰国した。孫達にお正月を体験させるべく、年末年始、私のマンションを提供した。そして、楽しかった思い出を胸に正月三日の朝方には住いの神奈川へ向けて出発した。以上が掲句の背景であるが、これらを十七音では到底表現出来ない。掲句を通じて、別れの瞬間が、季節や親子の絆と結びついて、深い感情を 引き起こしている様子を読み手と共有出来たら幸いである。 ふたたび「あとがき」を紹介した。 本句集の装釘は、前句集『空性』と同じく君嶋真理子さん。 前句集に響き合うものとなった。 紬風の表紙。 扉。 花布は白。 栞紐は茶色。 まどろんで天狗と酌めりましら酒 上梓後のお気持ちをうかがってみた。 私の思い描いていた形になりました、特に、先の第二句集『空性』の装丁を踏襲して頂き、感謝しています。 第二句集上梓後まもなくして主宰を亡くし羅針盤を失いましたが、新たな俳縁を得て、上梓に漕ぎつけました。 出来上がった句集を読み返しますと、自分の成長や変化が見えてきます。 読者の方に私の世界観や感性を伝えられることを嬉しく思っています。 今後も句作を続け、自分らしい表現を追求していきたいと思います。 安城初蝶句会の皆さまと。 今生は道草ばかり草の花 伊奈 治
by fragie777
| 2023-12-28 18:30
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