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12月21日(木) 旧暦11月9日
山茶花。 朝の出勤途上で。 送ったメールをたまたまあとで読み返すとかならずといっていいほど、打ち間違いをして驚くやら恥じいるやらはたまた笑ってしまうことがある。 昨日のこと、 小澤實さんにメールを送った。 最後に 「山岡拝」と付した。 ところが、小澤さんから御返事のさいごに、 「山岡杯、いいすね」って。 えっ! いやだ。 でも、思わず笑ってしまった。。。。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯有り 170頁 俳人・岩淵喜代子(いわぶち・きよこ)さんの第7句集である。前句集『穀象』(第33回詩歌文学館賞、第11回日本1行詩大賞受賞)が2017年の刊行であるので、その後のおよそ6年間の作品を収録したものである。 本句集は全体を10章にわけ、それぞれの見出しを章の巻頭におかれた一句より採っている。たとえば、「Ⅰ 賑ひ」は、〈末枯れの賑ひにあり雑木山〉に拠り、また句集名もこの一句に拠っている。章をなす句はどれも良い句であると思う。「Ⅱ わが鬣」は〈いつも拠るわが鬣の冬欅〉の句よりで、読者に見出しの言葉がどんな一句からうまれたものであるかを楽しませるそんな編集的な配慮もあって楽しい。この「わが鬣」は、本句集の装釘のイメージともなった一句である。 担当は、Pさん。 秋深し夜ごとに紅き栞紐 綿虫の消えてこの世の音ばかり 暖房の届かぬところ出口あり しろつめくさからおきあがる女の子 河骨は今日も遠くに咲いてをり 烏瓜の花泡立てる月夜かな 白桃を水の重さと思ひけり 鬼灯を鳴らせば愚かな音なりし 秋深し夜ごとに紅き栞紐 本を読むとはどこにも書かれていないが、本を読んでいるのである、もちろん。それもかなりその本に魅了されているのかもしれない。あるいは大冊であってそうそう簡単によめるものではないのかもしれない。「夜ごとに」がそのことを告げている。今日はここまで、と栞紐をはさんで本を閉じる、すでに秋の夜はふけてすっかり遅い時間となってしまった。「秋深し」の季語によって、時間的な深まりのみでなく、作者がこの一書に深く入り込んでいるそんな気配も感じさせる一句だ。「紅き栞紐」もまた作者のこの本にたいする思いの熱量を感じさせる。深く深く一書のなかに入り込んでいく、秋の夜なればこそ、である。 綿虫の消えてこの世の音ばかり この句、よくわかる。綿虫をみつけたときって全身が綿虫にむかって集中する。そしてそのはかなく揺らめく存在がその姿を追う人間から聴覚をうばう、一瞬この世の音が消えるのである。そんな経験をしたことがある。この一句の味わいは、その綿虫が消えたその後を詠んだことである。視覚からきえて、聴覚が甦ったのである。音がクリアになって、この世のことも明確に見えだした、つまり綿虫の呪縛?から解き放たれて、娑婆にもどったのである。綿虫という人の心を魅了する不思議な生き物。そんな綿虫へのオマージュともとれる一句か。 鬼灯を鳴らせば愚かな音なりし わたしは読み飛ばしてしまったが、おもしろい一句だ。鬼灯の音、わたしも小さかったころ、鬼灯をいくたびも口の中で鳴らしたものである。あの低音のなんといっていいか、「ブーッ」て間の抜けたような、でも親しみやすい音。そう、それは大人になって思い返せば「愚かな音」とも聞こえるかもしれない。だれもこれまで鬼灯の音を「愚かな音」と言ったものはいなかった。でも確かにそう。愚かな音、だからそこ愛おしいってこともある。口の中から賢い音などが飛びだしたら、鬱陶しくてたまんない。 花八手象牙の蕊をこぼしをり 作者が自選にとっている一句であり、わたしも好きな一句である。この一句の眼目は「象牙の蕊」であり、それをこぼしたということ。多くを語っていない。でも、この「象牙の蕊」を得たことによって、花八つ手を知るひとは誰も納得してしまう。ああ、確かに象牙のよう、って。あの淡クリーム色のような白、そしてはりつめた硬さ、枯れを背後にした花八つ手をみるときまってハッとしてしまう。冷たさを感じさせながらも生気にあふれている不思議。「花八手象牙の蕊」とほぼ漢字でうめて、「こぼしけり」と平仮名書きすることによって、造形的に堅牢な感じをさせる花八つ手の花の一角がくずれていく、そんな様子も見てとれる一句とみた。 箱庭は誰も帰つてこない庭 この一句は、校正スタッフの幸香さんも好きな一句にあげておられたが、わたしも立ち止まった一句である。人は何故「箱庭」をつくるのだろうか。わたしはこれまでに箱庭をつくったことがないので、箱庭をつくった人い聴いてみたい。しかし、箱庭なるものを見たことはある。「へえー、よくできてるわねえ」なんて覗きこんだりして。そうしてふっとその箱庭に自身の影をおいてみたりするのだ。小さな人となって。しかし永住することはなく、すべての人は立ち去っていく。本当は「箱庭」はそこに人がいて生活をして欲しいと思っているのだ。しかし人は立ち去るばかりで二度とそこに自身の影をおくことはない。この一句、「箱庭」という季題をおもしろい視点で詠んだ一句だとおもった。 桐一葉祈りの手より大きかり 好きな句である。「祈りの手」という措辞に心がひびいた。桐の葉ってちょうど人間の手くらいの大きさで、形も似ていなくもない。だから手を連想することはある。が、ここでは「祈りの手」とあってこの手に意味が与えられた。桐の葉が散っていく、そこに作者の切々たる思いがあるのだ。この句のあとに〈夫が来てしばらく桐の実を仰ぐ〉という句があって、あるいは夫君を亡くされた岩淵喜代子さんの夫への思いをこの二句に込めたのかもしれない。そうであってもいいし、この「祈りの手」はいろいろな祈りの意味づけがされてもいい。しかし、一句をふたたび読んでみると、つまりはこの句「桐一葉」を詠んだだけの一句なのである。「祈り」という人間の側にあるやや重たい?行為を、桐一葉という季語を詠むことのなかに巧みにひそませた一句とも思う。 雑木林は武蔵野の特徴でもあります。楢や橡やそのほかの何の木ともしれぬ樹木が集まって林を成しています。末枯れが始まると、林はその空を少しずつ広げて、いつの間にかどの樹も残らず裸木になってしまうのです。毎年その経緯を眺めながら、林の根元に日差が行き渡るのを、なぜかほっとしながら眺めています。 句集タイトルは、〈末枯れの賑ひにあり雑木山〉からとりました。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装釘は君嶋真理子さん。 ![]() 担当のPさんと、この女性はいかにも岩淵喜代子さんらしいって、いくつかのラフ案のなかからこれを推薦したところ、岩淵さんも気に入ってくださった。 表紙の型惜し。 装画の型惜しのなかに「末枯れの賑ひ」と文字が浮き出るようになっている。 扉。 花布は金。 栞紐は、緑。 各章の扉には、岩淵喜代子さんのご希望によって、カットをあしらった。 空蟬の中より虹を眺めたし ご上梓後のお気持ちをうかがってみた。 句作ということばがよく使われています。わたしも無意識のうちにいくたびも口にしていますが、俳句はつくるというより写すものではないかと思っています。 繰り返し口にしてみて、自分の見た風景になったときに一句が定着します。あえて「句作」ということばを使えば、自分の見た風景が正確にことばに置き変わったときに句は完成します。それはカメラのピント合わせに似ています。 河骨は今日も遠くに咲いてをり 岩淵喜代子 夕暮れのなかの鵯。
by fragie777
| 2023-12-21 19:45
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