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11月15日(水) 七五三 旧暦10月3日
長野・善光寺の山門にいた猫。 野良ではあるが、このお寺で世話をしてもらっているらしい。 追いかけてやっと眼を合わせてもらった。。。 現れたときは、呼びかけても知らんぷり。 どんどん歩いて行ってしまう。 人を怖がる様子は微塵もない。 この仁王門の前に寝床が作られていた。 昨日の讀賣新聞の長谷川櫂さんの「四季」は桑原三郎句集『だんだん』より。 猫は人を猫と思ひぬ十三夜 桑原三郎 「猫は優雅な生き物である。しなやかな身のこなし、なめらかな毛並み、甘い声。どれも人間の及ぶところではない。」と長谷川さん。 まったくその通り。今日はPさんとこの飼い猫の「きいちゃん」が膀胱炎ということで、Pさんお医者につれて行ったりで大変そうだった。 わたしはもう飼い猫の心配をすることがなくなったけど、やはりさみしい。。。 家にいるといまでもトントントンって階段をおりてくる猫の足音がする。 おなじく昨日の毎日新聞の坪内稔典さんの「季語刻々」は、後藤立夫句集『見えない風』より。 おでん屋にただ集つてをりにけり 後藤立夫 「ただ集まっている、がいいなあ。若い日や中年の頃にはたしかにそんなことがあった。おでん屋だったり喫茶店だったりしたが。」と坪内さん。 そうだなあ、いまは「ただ集まる」なんてことしないな。集まるときはきっとなにか目的がある。集まって無為の時間をすごす。それもいいかもしれないけど、悲しい(?)ことに今後のわたしの人生において「ただ集まる」ということはあり得ないように思える。それほど意味のない時間を過ごすことを恐れているように思う。じゃ大した時間を過ごしているかっていうと、わたしに限っていえば、ああ、もう言うのもはばかられる。。。 今日の吉川宏志さんの「短歌日記」の文章は、すごく身におぼえがある。わたしなぞ、そんな本ばかり。若き日に読んだ本をなんとなく手にとって開いて見ると文章の箇所に線が引いてあるばかりでなく、そこに小さな字で書き込みがしてあったりして、その書いてあることがなんだかいっぱしのことだったりして、へえーって驚くことが多い。これって本当にわたし、書いたの?! わたしはまったくベツモノのわたしに出会うわけである。 百句シリーズは、森澤程さんの執筆による「和田悟朗の百句」を先週末に校了、下版したところである。 すこし時間をかけて取り組んでいただいたもので、ご尽力に感謝している。 ゲラを読みながら思ったのは、和田悟朗の俳句はわかりにくい俳句もあるのだけれど、それもおもしろいということ。 作品の前で硬直させるようなわかりにくさとは違って、作品のまえで気持がのどかに広がっていくようなわかりにくさとでも言ったらいいのか。 読んでいて楽しかった。 森澤程さんは、「悟朗俳句はそこに完全に立ち入ることができないという何かを感じさせるものがある」と解説する。 そしてその何かを解説によってつまびらかにしていくのである。 俳人・和田悟朗のあらたなる発見につながる一書となればと願っている。 又、本著は、和田悟朗さんによる『自句自解ベスト100 和田悟朗』と読み比べたりして読んでもおもしろいかもしれない。 藤の花少年疾走してけぶる 和田悟朗 寒くなったので、床暖房をして暖房もつけはじめた。 風邪をひくのがコワイ。 皆さまもお気をつけくださいませ。
by fragie777
| 2023-11-15 18:36
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