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11月9日(木) 山茶始開(つばきはじめてひらく) 旧暦9月26日
「あっ、黒山羊さんだ」って、皆で近づいた。 もっと近づきたかったのだが、他所の家の庭に踏み込むかたちになっているので、これ以上ちかづけない。 近くにはブランコが。 人の姿はなかった。 今朝、スタッフより尋ねられた。 「旅行の行き先、分かったのですか?」 「ああ、わかったのよ」と言いながらも、わたしはその場所をまだよく分かってないままつげたところ、 「ああ、わたしも行ったことがあります」 「そのお寺、有名ですよ」 「いま、栗がおいしいですよ」 などなど、スタッフの反応がすばらしい。 そんなに有名なとこだったんだ。 今週末にこのブログで撮ってきた写真でお教えしますね。 お楽しみに。。。。。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯有り 188頁 二句組。 著者の川森基次(かわもり・もとつぐ)さんは、1964年大阪生まれ、現在は東京・台東区在住。いまなお現役の仕事人でおられる。2020年8月に作句を開始、2021年4月俳誌「遊牧」同人。2021年9月俳誌「門」入会、2022年8月「遊牧」編集長。現代俳句協会会員。本句集は第1句集であり、帯文を「遊牧」の塩野谷仁主宰、序文を「門」の鳥居真里子主宰が寄せている。 帯文を紹介したい。 豆炒つて食べるも自由鬼の春 川森基次さんはまさしく「意志の人」と思われてならない。いま、私たちの俳誌「遊牧」の主要句会の幹事役を担っているが、その仕事ぶりの緻密さはともかく、作品に於いても首尾一貫して映像を重ねてゆく。掲句は掉尾の一句だが、「豆炒つて食べるも自由」はそのことを如実に表していると思われる。これからの展開を鶴首したい作家の一人ではある。 序文を書かれた鳥居真里子主宰は、『隠喩さみしい』の多彩な世界を新鮮にあたたかく鑑賞され、川森基次という俳人の魅力をあますことなく引き出している。抜粋となるが、紹介したい。 階段で谷中生姜とすれ違ふ 白菜の芯冷えるまで立つ廊下 曲線はすでに夜明けの金魚鉢 十五夜のきれいな水にして返せ しづり雪青水晶の目がひらく かはたれに蝦夷春蟬のざざざ雨 父にして竹馬の行きつ戻りつ 放課後の雨よりもなほ二月のかもめ これらの作品の一番の魅力はシンプルな言葉の働きにある。意味を見つけようとする心の動きを保ち続けた結果、美しい言葉の結晶を紡ぐ作品に昇華する。作品のそれぞれに映る小さな物語。その小さな世界のなかで人間の願望や矜持、屈折といった揺れ動く胸中が多面体を見るように表現されている。知らず知らずのうちに作者の心の扉の合鍵を必死で探し出そうとしてしまうのである。これこそ俳句鑑賞の冥利ではないだろうか。 このように記して一句一句を丁寧にさらに鑑賞していく。 そして、次のように語る。 集中には、作者の融通無碍な精神が凝縮された作品が数多ある。読者はそれぞれの好みで作品を選ぶことだろう。 「融通無碍な精神」とは、この作者にぴったりの言葉であるとおもう。 さて、本句集の担当は、Pさん。 飛び去れば蛍の匂ふガラス瓶 砂浴びの象の目遠く晩夏光 悪党の集合写真つくつくし 秋は朝好きでくちびる紅ひかず かはたれに蝦夷春蝉のざざざ雨 六月の眼鏡のくもりそのままに 八月が了る水抜く身体から 深層の水の宅配雨の月 Pさんの好きな句である。 飛び去れば蛍の匂ふガラス瓶 つかまえた蛍をガラス瓶のなかに閉じこめたのだろうか。この句、「飛び去つて」ではなく、「飛び去れば」とあって、ややニュアンスが微妙だ、「飛び去つて」であれば、蛍を閉じこめたことは明らかであるが、「飛び去れば」の謂によって、その現実性がややゆらいでくる。眼の前の虚ろなガラス瓶をみつめる作者が、そこにいたかもしれない蛍を幻影として浮かびあがらせ、その残像の根拠をガラス瓶に鼻を近づけて嗅ぐ匂いによって立ち上がらせる。そんな一句のようにも思えてくるのだ。現実にあるのは、眼前のからっぽのガラス瓶。そこより草のような匂いがたちあがる。ああ、蛍はきっといたのだ。冷たく硬質なガラス瓶、蛍の繊細さとはかなさ、蛍の匂いのみが命の余韻を語っている。 砂浴びの象の目遠く晩夏光 わたしは象については、猫の習性ほどには詳しくないので、象が「砂浴び」をすることも知らなかった。するらしい。井の頭動物園にいた象の「はな子さん」を何度もみたことがあるが、砂浴びの現場はみたことがなかった。調べたところによると紫外線や害虫から身をまもるために砂浴びをして身体中を砂だらけにするらしい。掲句は、その現場を一句にしたものか。この句の眼目は、砂浴びをしている「象の目」に作者の思いがあるということだ。その目が「遠く」とあるのは、作者の目からみて「遠い」ということか。いやそうではなく、その象の目そのものが、遠い眼差しをしているということ、その遠眼差しに作者の心が動いたのだ。象のこころはいまここにはなく、かつて見ていた遠き日の風景を遠望しているかのようにいくぶんかなしげだ。あるいはそれは場所のみではなく、象自身がいまここにあることからの歳月への遠望かもしれない。そんな郷愁の眼差しを作者はみている。その象に晩夏のひかりはあくまでやさしい。この「晩夏光」のことばの響きは、包み込んでくれるようなひろがりがあるのではないか。 余談だけど、象のはな子さんを見て思ったのだけど、象の目ってつねにかなしげだ。 かはたれに蝦夷春蝉のざざざ雨 おもしろい一句だ。この句は、意味をあれこれ思うより、句そのものに勢いがあって言葉の組み合わせで詠ませてしまうような一句だ。序文で鳥居真里子さんもあげておられ鑑賞されている。「ざざざ雨にはえんえんと鳴く蝦夷春蟬のエネルギーの激しい湿りを。」と。まだ薄くらい明け方の「かはたれ」時に、蝦夷春蝉と雨の勢いを濁音を駆使して一気に詠んだ俳句だ。「ざざさ」は蝦夷春蝉の激しい鳴き声とも、雨の激しさとも思わせるのが巧みである。上5の「かはたれに」ということばの軽さが中7下5濁音の勢いをさらに印象づける。あれこれの鑑賞不用の一句である。 白菜の芯冷えるまで立つ廊下 これはわたしが引かれた一句である。鳥居真里子さんも序文でとりあげている。どんな風に鑑賞されていたかというと、「白菜の芯の白さと硬さは作者自身か」と、そうか、そういう鑑賞もある。わたしはこの一句、きわめて冷たい廊下に立ち尽くす人間をおもった。ポール・デルボーの絵画に描かれているような深閑とした廊下である。どんだけ冷たいかというと、「白菜の芯冷えるまで」の冷たさである.思うに、白菜という野菜は、触れてみればわかるように冷たい野菜の筆頭格である(とわたしは思う)その冷たい白菜の芯が冷えるまでということは、外側から冷えがはじまって中の芯に達するまでということ、いったいどんだけの冷たさなんだ。この冷たさ加減を表すのに白菜をもってきたのがおもしろい。しかし、この冷たさには救いがある、白菜の冷たさは、無機質な冷たさではなく、命をひそませた冷たさである。廊下に立つ人間は、やがてそこから立ち去ることができるのだ。ボール・デルボーの廊下と書いたけれど、実はあの石造りのような廊下ではなく、深閑としているがあくまで木造の廊下をイメージしている私であることが分かった。これも白菜と関係があるかもしれない。不思議な一句だ。 無花果は隠喩さみしいマルコ伝 これは好きな句というよりも、句集名となった一句であり、「隠喩さみしい」という意味深な言葉の意味がわかるかとも思い、あげてみた。そうか、マルコによる福音書よりの一句なのか、イエスが「役立たず」とは実際には謂わなかったけれど、イエスによって呪われた無花果か枯れてしまった、その無花果の喩えが意味することを「さみしい」と作者は一句のなかで詠んだのだ、この聖書の箇所は、イスラエルの民について触れたものでもあり、深い意味があり、おいそれとここで語ることはしたくないし、わたしにはできない。ただ、この一句についておもうことは、そのマルコによる福音書のイエスと無花果にまつわるエピソードをこのような一句に仕立てた川森さんの作句意欲である。無花果のたとえの背後には様々なイスラエルの歴史をふくんだ情報があり、なかなか俳句にしようとしてもひと筋縄ではいかないものだ。それを五七五にしてしかもその一節をタイトルにしてしまう作者がいる。固い歯でもってなんでも噛み砕いてしまうような作句意欲がすごい。この句は、一句としてさみしさをまといながら立っているのだ。 青年葉期より「日本的なるもの」への異和と執着という二律背反の思いに駆られ、その思いを詩や短歌などの表現にぶつけたころもありました。いまにして思えば、糧をもとめて企業人となってからも、その思いを捨てきれずにいたのかもしれません。長い企業生活の中でいつも散文的な世界には収まりきらない言葉を抱いたまま生きてきたような気がしています。この「詩心」というにはあまりにも曖昧なものが四十数年後に「俳句」という器に出会いふたたび自分のなかで抗いを始めたのはコロナ禍という事態が引金をひいたからかもしれません。 しかしその間に、トリビアルなものへのひりひりした感性の鋭さみたいなものをどこかに置き忘れてきたようで、世界との緊張感の中で生まれてくる言葉をいちど想世界の物語におきかえて「俳句」という器におさめています。そういう意味では叙景も叙事も叙情も自分にとって俳句は十七音の小さな、しかし完結した物語。諧謔もよし。季語を通じれば日常性も非日常性も自在に表現できる。〈約束事〉にもたれかかればありふれた表現にも陥るし、〈約束事〉の中に想いを抗わせてみれば新しく発見できるものもある。「作りモノではあるが作りゴトは書かない」と決めたからは、〈俳諧自由〉とは緊張感のある厳しいテーゼだと思う。「わたしの表現」に問われているのは「わたしと世界との関係」だと自分に言い聞かせればなおのこと。まだまだ初学の域を出ないが二年半の句をまとめてみました。 「あとがき」を抜粋して紹介。 本句集の装釘は、君嶋真理子さん。 装釘するのにはなかなか難しい句集名を、君嶋さんはスマートにデザインした。 銀箔が清潔である。 扉。 花布は、黒。 栞紐はグレー。 君はいつか草入り水晶青あらし すでに川森さんは俳句と肩を組み︑がっちりと固い握手を交わしているのだと思う。その作品の足跡がこれからどのように残されていくのだろうか。期待は限りなく大きく膨らむ。(鳥居真里子/序) ご上梓後のお気持ちをうかがった。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? ありふれた話かもしれませんが、まず俳句を始めるきっかけとなった伴侶(妻)に手に取ってみてもらえる、間に合ったという気持ちでしょうか。 (2)初めての句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい。 短いとはいえ私自身にとってこの三年の歳月を句集というカタチではやく纏めてしまいたい気持ちに駆られたというのが本音でしょうか。コロナ禍の息苦しさの真っ只中を句作に賭けて生きてきたような気がします。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 ふらんす堂さんに最終原稿をお渡しした翌日から初学の句のことは綺麗さっぱり自分の中から消えました。推敲のもやもやはもう新しい作品に向かっています。元気で続けられれば三年後には次の句集を出したいなどと思いつつ。 川森基次さん。 「社員旅行で大久野島に行った時のものです」ということ。 川森基次さま 俳句にとりくむ情熱が素晴らしいです。 すでに新しい作品に向き合っておられるということ。 次の句稿をスタッフ一同お待ちしております。 棄教未だし一塊の柘榴割く 川森基次 ドキッとした一句でした。
by fragie777
| 2023-11-09 20:30
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