|
カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
10月26日(木) 旧暦9月12日
溝蕎麦。 今日はもうすさまじい勢いで朝早くから仕事をした。 トイレに立つとき以外は、机にへばりついていたと思う。 読み合わせをしたのだが、スタッフPさんは今日はリモート勤務。 で、オンラインで読み合わせをしたのであるが、かなりつかれた。 「もうこんなに仕事をしたら、死んじゃう!」ってときどき叫んだのであるが、 スタッフは誰もどりあってくれない。 チラッと笑って黙々とみな仕事をしている。。。 でも、頑張ってノルマを果たした。 「勝利したぞお!」って声をあげたら、 「頑張りましたね」とスタッフが言ってくれたので、とても嬉しかった。 これからお隣の美容室に行って、カットしてくるわ。 これから11月へかけていろいろと俳句の会があるのだけど、すこしは髪をととのえて思って、美容室の予約をみたらもう今日の午後6時しか空いてなかった。 で、行ってきたら、新刊紹介をする予定。 働くでしょ。 死んじゃうかもよ。 じゃ、行ってきます。。。 いま戻りました。 大分短く切って、首筋がやや寒い。 さ、もうすこし頑張ろう。 新刊紹介をします。 A5判変型ソフトカバー装 120頁 二句組 俳人・桑原三郎(くわばら・さぶろう)(1934)の第9句集となる。桑原三郎は、俳誌「犀」代表、現代俳句協会名誉会員。ことし90歳を迎えられた。 本句集のタイトルは〈だんだんに一年早し日短か〉による。 本句集は『夜夜』に次ぐ第九句集です。題名に特に意味はなく何となく現在の気持ちのままを表したものです。これまで人生、一生、晩年などと言葉にして来ましたが、生老病死という言葉があるように、人生にはなってみなければ分からないことも多くあることを実感しているこの頃です。ただ、俳句があって私の人生に幾分の花が添えられたとの思いも内にあります。 「あとがき」に書かれているが、「俳句があって私の人生に幾分の花が添えられた」とは、良きことばである。つつましいもの言いであるが、なにかそこに作者を潤してくれるかけがえのないものがあるということを感じさせる。この「幾分の花」がいいと思う。「意味」とか「意義」とかではなくて、「花」であると語ることで、そこに桑原三郎の俳句観が滲みでていると思った。この小さな詩型がそんなふうに自身の人生を華やぎのあるものにしてくれたということ、そこに安らかな思いでいるということ、名声とか権威とかそういうものに心を乱されず自身を充足させ幸せにさせてくれるものとしての「花」。俳句はそんなふうに人間に寄り添ってもくれるのだと、この「あとがき」を拝読して思ったのだ。 本句集の担当は、文己さん。 レコードに一本の溝敗戦日 烏瓜の花にはとりも夢を見る 餡パンの中の隙間やさくらさくら 地球儀の斜め上なる冬の蠅 初薬師目薬の木を買ひにゆく 行く春や自転車は漕ぎ船は浮く 鳥雲に電柱のなき街を過ぎ 父の日の父を思へば母の顔 この裏表紙の帯の抽出句は、桑原氏の希望で文己さんが抄出したものである。 だから、帯の句と、文己さんの好きな句は重複している。 レコードに一本の溝敗戦日 作者は、敗戦の日を経験している。そしてその経験は作者の人生において幾度となく繰り返し思い出されたものだろう。昭和という時代をたっぷり生きてこられた方だ。レコード盤も昭和のものだ。レコードには、無数の溝がある。しかし、あまたの溝のなかで一本の溝が際立ってみえた。それはあたかも作者の堆積していく思い出のなかでもとりわけ深く作者のこころを抉ってきえることのない敗戦の日のように。レコードと敗戦日、昭和という時代が深い傷跡をみせながら立ち上がってくる。 (上記のように鑑賞したところ、レコードには無数の溝ではなくて、一本の溝があるのみ、というご指摘を俳人の高橋白崔さんからいただいた。そうか、一本の溝を針が追って音を奏でるわけだから、そちらの方が正確である。そのことを追記しておきたいし、その方が一本の溝が深い意味をなしてくる。)) 餡パンの中の隙間やさくらさくら この句を読んだとき、わたしは木村屋のあんパンを即座におもった。「さくら」と「あんパン」との取り合わせによる。というのは、木村屋のあんパンは、こしあんをいれたパンのお臍には、桜の塩漬けが載っている。その桜の風味と塩味が、こしあんとよくマッチしていて、さっぱりとしたパンの風味とよく会うのだ。桑原さんもきっと召し上がったことがあると思う。とわたしは勝手に想像する。この句、下5が6音になっている。通常は避ける叙法であるが、この句の場合、隙間ある餡パンと「さくらさくら」という叙法が、一句を楽しげにしていて餡パンも美味しそう。餡の色と桜のうすピンク、いい感じで焼き上がったパン生地、全体におだやかでややゆるい感触、さくら時のよき時間が流れる。さくらを喜びあんパンを喜んでいる作者が見えてくる。もの食すとき季節を敏感にキャッチする方なのかも。〈外郎の歯ごたへに秋深みたり〉〈ゆく秋のもの喰つて口残りたる〉もおもしろい一句だ。 梅ましろ入棺体験してみるか おどろいた一句である。死者をおさめる棺であるが、まえもってそれはどんな感じなのだろうって体験する? でも実際に納められたときは、すでに死者となっているわけだから、前もって体験してもそれを再び思いだすことなんてできゃしない。でも、こういう気持ってわからないでもない。わたしも小さな頃からときどきどんなんだろうって思ったりした。多分多くの人がおもうと思う。この句「梅ましろ」で、救われたような気持になる。あるいは梅の白さをみて、そんな風に思われたのかもしれないが、なんといったらいいのだろう。「梅ましろ」で、肉体が浄化されていくような、黄泉の世界から引き戻す力が「梅ましろ」にはあるようにわたしには思えるのだ。ほかのどの花だってだめ。桜咲くだったらそのまま彼岸に行ってしまうような、菫咲くでもだめ、桐の花とか、野菊とかいろいろと思い浮かべてみたのだだが「梅ましろ」にはかなわないなって思う。ほかに〈生きてゐるうちに死にたし紫木蓮〉という句もあって、この句も面白いが、死についてあれこれ思いめぐらすことも多い作者なのかもしれない。 海に出て川の匂ひや星祭 なんとも大きな景をざっくりと詠んだ一句である。「海」「川」「星」が登場する。しかも大海に流れ込んだ一川が匂うというのである。どう経験すればいいのか分からないのだが、この「匂ひ」がとてもリアルに思えるのだ。どうしてだろう。そして「星祭」という季語。七夕の日にたまたま海をのぞむところにやってきて、そこに川が流れ込んできていて川の特有の匂いが鼻を突いたということか。なんとかリアル体験としての実景を思えばそんな風にも考えられるけど、どうなんだろう。いまふっと思ったのだけれど、わたしたちの住む地球のことが詠まれているのかと。地球上の海と川のいとなみへの挨拶句のような。そして「星祭」によって天空への挨拶も。へんな解釈かもしれないけど好きな一句だ。「匂ひ」がわたしを立ち止まらせる。 鳥雲に電柱のなき街を過ぎ 昨今「電柱のなき街」がどんどん増えている。「電柱のなき」と意識するのは、電柱がある風景をよく知っている作者であるからだ。時代の移り変わりへの作者の感慨がこめられている。「電柱」は、やはり昭和の匂いがする。「鳥雲に」の季語が、作者の懐旧の思いにさらに詩情を添えている。「街を過ぎ」という叙法もまた、人も時代も去りゆくものであることを思わせる。すべてはとどまることなく流れ去っていくのだ。「鳥雲に」と上5をおいてまず広やかな景を喚起し、それから電柱という縦のイメージを呼び起し、そこを過ぎ去っていくという横への運動、巧みに詠まれた一句である。 校正スタッフのみおさんは、 「〈飯のあと横になる癖梁に蛇〉の句に惹かれました。年季の入った太い梁のある家を想像します。」と。 本句集の装釘は、君嶋真理子さん。 君嶋さんには、A5判にしてタイトな句集にと依頼した。 ![]() ![]() 帯カバーにして、変化をつけた。 ![]() ![]() ![]() 用紙は、表情のあるもの。 ![]()
![]() ![]() ![]() ![]() 表紙と見返しは同じ用紙で。 ![]() 扉。 ![]() ![]() ![]() 烏瓜の花にはとりも夢を見る なお一層老後を究めつつ俳句に付き合って行くつもりの現在ではあります。(作者/あとがき) 担当の文己さんの話では、句集上梓後のお気持ちをうかがいたく、何度かお願いしたらしいのだが、 「お応えはいただけなかったんです。」ということ。 しかし、一葉のお葉書をいただいた。 それがなにより素敵なので、ここに紹介します。 ![]() 嬉しいお気持ちである。 桑原三郎さま ありがとうございました。 このブログはお読みにならないかもしれませんが、 わたしたちの気持が伝わりますように。。。。 「ほら、翡翠よ」って一緒にあるいていた人間に指さして教えたところ、 「どうしてわかるの」と聞かれた。 小さくて分からないらしい。 「それはね、翡翠がわたしを呼びとめるからさ」って答えた。
by fragie777
| 2023-10-26 20:34
|
Comments(2)
毎朝の日課の如く、ブログを楽しく拝見しています。
さて桑原三郎氏の一句「レコードに一本の溝敗戦日」の鑑賞について私の鑑賞はこうです。「レコードは無数の溝があるようで実は一本の溝。永久に続くかに思えた昭和の時代がレコードの演奏が終わるように”ある終焉”を迎えた。それが敗戦日という事。」
0
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||