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10月24日(火) 霜降 旧暦9月10日
白式部の実。 しばらく眺めていたい実である。 今日付の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、真板道夫句集『フランス山』より。 栗の飯諍ひながら共白髪 真板道夫 「喜びも悲しみも乗り越えてこを、連れ合い(パートナー)といえるのかもしれない」と長谷川さん。本当に。。。「諍ひながら」がリアルである。 今日は校了間近のものをスタッフたちと読み合わせをする。 「どうしても今日しないとダメなのよー」って、朝のミーティングでスタッフたちに泣きついた。 で、 スタッフたちの協力をえて、さっきまで読み合わせをしていた。 どうやら先が見えてきて、勝利(?)まであと一歩というところか。。。 疲れた。 おお、そうだ。 ヤクルト1000を飲まなくては。 ☆ ☆ ☆ いま飲んだわ。 三口でごくごくと。 さっ、もう少し頑張ってブログを書こう。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯あり 216頁 二句組 著者の岡田眞利子(おかだ・まりこ)さんは、1948年広島生まれ、現在は広島・福山市在住。2003年「狩」入会、2008年「狩」同人、2013年「狩」終刊により「香雨」入会。2023年第36回村上鬼城賞正賞受賞。現在は「香雨」同人、俳人協会会員。本句集は、第1句集であり、俳誌「狩」に掲載された鷹羽狩行主宰の「鑑賞三句」を収録し、「香雨」の片山由美子主宰が序文を寄せている。 それぞれ抜粋して紹介したい。 まずは鷹羽狩行「狩」主宰の「鑑賞三句」より。 春宵の水のゆらぎに灯の揺るる 「春宵」は、〝価千金〟というロマンチックな雰囲気と、何かけだるいような情緒もはらんでいる季語である。水に映る「灯」は〝赤い灯青い灯〟だろうか。一日の仕事が終わって、夜の歓楽がはじまる前の浮き立つような気分がよく出ている。 「狩」〈秀句佳句〉(平成十九年七月号) 片山由美子「香雨」主宰の序文より。 このたび、これまでの作品をまとめられることになり、多くの発表句から厳選したのが『能管』である。「狩」において熱心に学ばれたことは、つぎのような作品を見れば分かるだろう。 凍鶴の己が影より逃げられず 月光に身を震はせて蟬生る 姫の名の新酒に不覚とりにけり 寒垢離の桶を大きく使ひけり 空蟬の金剛力の爪の先 末黒野に新しき闇来てゐたる 春水のふくらみ切つて堰越ゆる どれも一句の焦点が明快で表現に緩みがなく、きわめて完成度が高い。さらに、句の姿の美しさを特長としてあげておきたい。二句目の蟬の羽化を詠んだ作品は、その場面を見たことがある人なら、命の神秘にあらためて感動するだろう。「末黒 野」の句は、黒一色の世界において「新しき闇」が発見である。 本句集の担当はPさん。 Pさんが好きな句として選んだのは、 鵜篝の闇ふくらませ下り来る 水はじき光をはじき黒葡萄 父呼べば涼しき風の立ちにけり 虎杖を見れば手折らずにはをれず みんみんの木のふくらみて来りけり 棹挿すも抜くもゆつくり蓮見舟 五羽十羽はや椋鳥の木となりぬ 水はじき光をはじき黒葡萄 黒葡萄ゆえの光である。洗われてテーブルの載せられた黒葡萄はつややかな粒をみなぎらせて水をはじかんばかりである。そして光も(これは朝の光と思いたい)その新鮮さゆえにはじくほどその粒は充実している。黒葡萄の存在感はこの「光をはじ」くという措辞によってその黒々とした塊を読者の目に呼び込んでいるように思えるのだ。この洗われたばかりの黒葡萄がそのまま放置され、やがて夜になるとその闇を吸い込ん妖しげな黒葡萄となるのかもしれない。黒葡萄は洗ったらできるだけ早く食べることにしよう。 父呼べば涼しき風の立ちにけり この一句は、わたしも立ち止まった。作者の父親観が思われる一句だ。どんなお父さまだったのだろう。だって、涼しき風よ、こんな風に父親のこと思えます? わたしの父親も真面目なそれなりの父親だったけど、呼んだら「涼しき風」が立つなんでまずあり得ない。〈白縮父の一徹受けつぎて〉という句もある。白縮に象徴されるような父、そして一徹だった父。どんなに素敵なお父さまだったのだろう。でも、あんまり素敵なお父さまだったら、ファザコンになってしまってまわりの男性たちが、いま一つって思えてしまうかもしれない。作者はそのようなことはないと思いますが。。。 開帳の御仏になほ厨子の闇 わたしはこの句をおもしろいと思った。秘仏かもしれない。その秘仏が開帳される。その姿をひと目みようと、拝顔したところ、秘仏を蔵しているその厨子に闇を見出したのだ。鋭い感覚である。この闇は秘仏とともに長い時間を経てきた闇であり、いやそれよりさらに先のもののはじめの太初の闇なのかもしれない。実は、本句集を読んでいると「闇」を詠んだ句の多いことに気づいた。〈鵜篝の闇ふくらませ下り来る〉〈初声に闇やはらかくなりゆけり〉〈梟の鳴くたび闇の深まりぬ〉〈末黒野に新しき闇来てゐたる〉〈闇汁の闇のかたまり掬ひけり〉〈寒柝の一打一打に闇緊まる〉〈町角の闇より子猫掬ひあぐ〉〈蛍火や中洲は闇の濃きところ〉などなど。作者はいたるところに闇を感じるのである。「陰翳礼賛」とも。仔猫さえも闇より見つけたもの。闇は作者にとりわけ親しいものかもしれない。 葉桜や余白なきまで母の文 この一句もいいなと思った。この句は、父とはまたちがう関係性にある母親像がみえてくる。父親とは涼しき距離をたもっている作者であるが、母親とはもっと濃密である。作者あてに母が綿密につづった手紙、そこには「余白なきまで」に文字がびっしりと。それは娘へのおもいをあれこれと母親らしい気遣いで記したものだろう。「葉桜」の季語がその濃密さを思わせもするが、そこには生への現実的かつ積極的な母のサジェスチョンもまた見えてくるものだ。目をさましていなくてはいけない。〈桔梗や母の勝気の老いてなほ〉という母の句もあり、恬淡とした父に気丈夫な母、どちらも敬愛すべきご両親である。 月光に身を震はせて蟬生る 片山由美子主宰が序文でとりあげ、作者も自選にいれている一句である。本句集を読むとわかるように作者の岡田眞利子さんは美意識の高い方である。それは本句集に貫かれていて、たとえば句集名となった「能管」も〈能管の雲を払へる良夜かな〉の一句からもわかるように美意識に裏打ちされた一句である。闇をこのむ作者はまた、光に関してもきわめて敏感である。〈鷹匠の放てば光となりて鷹〉〈寒禽の光こぼしてひるがへる〉〈若鮎の光となりて堰越ゆる〉〈葦原をゆく一水の光あり〉〈フリージア朝の光の真つ直ぐに〉などなどあげるとまだまだある。つまりは、存在するものの輪郭をかたちづくるものへの光と闇を感じ取る感覚が他者とくらべて並外れて鋭敏であるのかもしれない。 『能管』は二〇〇三年より二〇二二年までの作品から三四三句を収めた私の第一句集です。 俳句との縁は、橋本多佳子の激しく情熱逬る俳句に出会った時から始まりました。俳句でこんなことが詠めるのかと驚き、胸を熱くしたことが思い出されます。 その後、縁あって「狩」に入会し、鷹羽狩行先生の抒情的かつ理知的な俳句に出会いました。狩行先生には、俳句の根幹、俳句の精神を教えて頂きました。そして「香雨」片山由美子先生には、何気ない日常の生活の中から詩を紡ぐこと、日常の 事を詩に昇華するということを教えて頂きました。 俳句の潔い詩型は、私を捉えて放しません。書き留めなければ忽ち遥か彼方へ飛び去り、二度とは帰って来ないかけがえのない人生の一瞬一瞬を、これからもずっと俳句の形に止めて行きたいと思っています。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装釘は君嶋真理子さん。 著者の岡田眞利子さんは、「赤」の色にこだわられた。 赤が闇の奥行きをともなって表現された、そんな装釘である。 表紙は、赤のおちついた布クロス。 扉。 金の花布。 赤の栞紐。 フリージア朝の光の真つ直ぐに 岡田さんの作品には光を詠み込んだものや、明るいイメージのものが多い。無意識のうちにそうしたものへの希求があるに違いない。それが作風にもなっている。恵まれた感覚を活かし、ご自身の世界をさらに深めていただきたい。(片山由美子/序) 著者の岡田眞利子さんから、上梓後のお気持ちをいただいている。 無事刊行することが出来、安堵しています。 今まで以上に精進していきたいと思います。 「フォントや文字の大きさ、装丁の赤の発色など、細部ににとても拘られて出来上がった一冊です。」とは、担当のPさんの弁。 鶏冠の赤のしたたる日の盛 岡田眞利子 この一句の赤もまたはげしい赤である。
by fragie777
| 2023-10-24 20:09
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