ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko

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写生から想像力へ。。。。

10月23日(月)  旧暦9月9日


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木々は紅葉がはじまりつつある。


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桂の木。


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桂の木は、紅葉をするときに芳香をはなつという。
わたしは大きく息を吸ってみたのだが、とくにまだいい匂いはしなかった。




写生から想像力へ。。。。_f0071480_17475578.jpg
「百句シリーズ」の『原裕の百句』が出来上がってくる。執筆者は原朝子さん。原裕のご息女であり、俳誌「鹿火屋」の主宰者である。原裕は、戦後俳人として鷹羽狩行、上田五千石などと世代をおなじくしよきライバル関係にあった俳人である。その円熟期をむかえんとするときに急逝されたのだった。亡くなられたときは、そのあまりの突然さにわたしも驚いたことを覚えている。原裕は1926年石鼎没後、後継者として原家の養子となり、コウ子未亡人を扶けて『鹿火屋』の運営に当った。俳壇を中心的に担うお一人として大いに期待されていたときの急逝であり、急逝後はなかなかその作品をまとめ読むということが難しかった。このたび、このシリーズで百句が読めるということを版元としても喜びたい。また、原朝子さんたってのこシリーズでの参加ご希望もあって、惜しみないご尽力でじっくりと取り組まれた一冊となった。抜粋して紹介をしたい。

 一房のぶだう浸せり原爆忌   昭和四十四年

原爆の日につなぐ心を一個人の視座から詠い上げた作。〈長崎の忌と炎天の塔かすか(昭40)〉〈ひろしまの忌日や高く飛べる蝶(昭47)〉とこの日を悼む句を詠んでいる。広島忌、長崎忌に比べて原爆忌という語の曖昧さがやりきれないとしつつも、原爆忌は戦争の悲しみを伝えるたった一つの季語だという。人間諷詠を志す者からすればその心情に最も適う詩語であったことが想像される。一房の葡萄を水に浸し、一粒一粒を口に運ぶのは日常の一齣。安寧のひとときとそれを瞬時に奪い去る原爆との対比がその悲惨さを静かに訴えかけてくる。(『葦牙』所収)

 鳥雲に入るおほかたは常の景   昭和四十八年

石鼎の高弟の一人、加藤しげるの訃に触れて駈けつけた時、伊勢原で大山を引く鳥の姿を眼にして人間の命の儚さに感じ入った気分の即時的把握の作。但し、句が完成したのは一周忌のとき、回帰する季節の中でであった。身辺で鳴いていた鳥が雲の彼方に去ると雰囲気は一変するが、自然の佇まいは常と変わらない。この句によって季節の真もまたこの世の存在の真とともに空無の心のうちのものであることを体得したという。不易流行の裕的解釈である。森澄雄の推奨を得た俳句開眼の作。(『青垣』所収)

 雁が音のそののち知らず石鼎忌   昭和五十六年

石鼎には雁の句が多いが、その集大成ともいえるのが〈秋はあはれ冬はかなしき月の雁〉である。石鼎終焉の地二宮には雁の渡りの道があった。秋から冬にかけて月夜に声を落として渡る雁は、石鼎没後、見られなくなった。石鼎とともに姿を消した伝統的美意識の表象である雁を惜しみ「そののち知らず」と詠じた。やや突き放した措辞に哀惜がこもる。他にも多くの修忌の句があるが、殊に心を費やした年の作〈見えて来し悲しみのいろ石鼎忌(昭和60)〉には拘りを持っていたようである。(『出雲』所収)

 子規忌のベッドにもの書かざれば只の人   平成三年

〈子規忌の風に眉根研がれてゐるごとし〉は同時作。この年の九月、病に倒れて東海大学大磯病院に入院、左半身に麻痺が残り、リハビリの日々を送った。病床で「只の人」について、「只の人」は自己否定ではなく、文字通り「只の人」、事実「只の人」であるにかかわらず「只の人」になりきれないと苦悩する。そして子規忌を迎えたとき見えたのが、病牀六尺の世界でものを書き続けた子規の姿であった。「もの書かざれば」という自己本来の姿を見出し得たのも、子規忌という季の計らいと人間探求の精神があったからに他ならない。(『平成句帖』所収)

巻末の原裕論は、「なつかしさの彩」と題して、原石鼎とその夫人原コウ子との関係において展開する。
一部のみを抜粋して紹介したい。

原裕の中で響き続けた詩のことばとは何であったのだろうか。それは、〈春の水岸へ岸へと夕かな 石鼎〉であった。裕は多感な少年時代、この句と出会う。戦後間もない昭和二十二年のこと、茨城県下館町(現筑西市)の須藤書店を訪れた高校二年生の少年は、引き寄せられるように「鹿火屋」を手に取り、その巻頭に記されていた「春の水」の句の悠久の調べの醸し出す抒情の虜となるのである。(略)
俳句作家にとって、最初に感銘を受けた句はその作家の俳句観を形作る。しかし、その一方で独立した俳句作家となるためには、先人の俳句観を踏襲するだけでは不十分である。そこには当然反発が起きる。いわゆる「石鼎離れ」である。ただ、すでに作家の中で核となった俳句観、俳句の美意識は容易に払拭できるものではない。そこで、小室善弘の指摘する通り、裕の言動は「石鼎離れの石鼎発見」という奇妙な軌跡を描くことになる。これは「石鼎回帰」と言い換えることもできよう。しかしそれは単純な往復運動ではなく「石鼎の求めたところを発見する」という収穫を抱えての回帰であった。そして、この回帰を可能ならしめたのは、もっと言えば、そもそも花鳥諷詠から人間諷詠へという飛翔を可能ならしめたのは、石鼎の教えの最も敬虔な信者である夫人コウ子の存在であった。自然諷詠だけでなく生活詠にも長けていたコウ子の句は、花鳥諷詠の陰に隠れていた人間諷詠への志向の後押しをするものであった。(略)
だが何と言っても石鼎発見の最たるものは、石鼎が鹿火屋俳句の根元とした「淋しさ」の中に「なつかしさ」を見出したことである。なつかしさの前提には、不在や喪失からくる淋しさがあり、なつかしさと淋しさは表裏一体の感情なのである。この発見について「石鼎の句は、(中略)その表現せられたところのものは、いずれも淋しさを経てなつかしさに至る」と結論付けている。

そして、原裕の俳句理論は、「写生より想像力へ」を布石とし展開してく。

裕の作句論は、写生から軸足を離さないものであり、写生を突き詰めていくのが想像力なのである。この「写生より想像力へ」においてもコウ子の存在は不可欠であった。何故なら「写生は俳句の門戸であり、敷石である」という石鼎の教えを信仰のように守り、その資質によって想像力あふれた作品を生むコウ子は、まさに身近な「写生より想像力へ」の実践者だったからである。


戦後俳人を代表する一人としての原裕の俳句作品に、是非触れて欲しい一冊である。


 十一面観音桜見にゆかん   原 裕






今日はものすごく仕事をした。
我ながらそう思う。

疲れたわ。。。。


ヤクルト1000を飲もう。

ヤクルトの回し者かって、
そんなことあるはずないじゃない。。。128.png

友人がこのブログをみて、「ヤクルト1000、よく買えたわね」って言ってたんだけど、なかなか買えないらしい。
そんなに人気があるんだ。
知ってました?






写生から想像力へ。。。。_f0071480_17454450.jpg



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by fragie777 | 2023-10-23 19:04 | Comments(0)


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