カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
画像一覧
|
9月22日(金) 旧暦8月8日
家の前の畑に咲いていた白花曼珠沙華。 雨に濡れて白が透きとおってなかなか綺麗だ。 今調べたにわか知識なんだけど、この白花曼珠沙華の花言葉は、「またあう日を楽しみに」「想うはあなたひとり」なんだそうである。 と、こう書いて、わたしって「花言葉」ってほとんど興味ないな、って思った。 どうでもいいやって思ってしまう。 ああ、でも、花に言葉を寄せるなんてそりゃそれで素敵なことなのかもしれない。 わたしの心があまりにもがらっぱちなんだと思うわ。 今日は新刊紹介をしたい。 46判ハードカバー装帯有り 242頁 2句組 令和俳句叢書 著者の梶原美邦(かじわら・よしくに)さんは、1944年山梨県生まれ、1972年「青芝」に入会し、八幡城太郎に師事。1978年「青芝賞」受賞、2011年2代目の中村菊一郎より「青芝」主宰を継ぐ。句集に『風の国』(1986年刊)、『青天』(2009年刊)があり、この度の句集は第3句集となる。俳人協会会員、日本現代詩歌文学館振興会会員。 本句集は、主宰をされている「青芝」の創刊70周年の記念として編まれたものである。 70周年とは長い歴史をもつ結社である。創始者の八幡城太郎は、大野我羊主宰「芝火」、日野草城主宰「戦艦」、「まるめろ」「青玄」などを経て1928年「青芝」を創刊主宰した。「師系日野草城、清新な生活感情を確かな日本語でうたいあげる」と俳句年鑑にある。 梶原美邦さんはその三代目の主宰となる。この度の句集については、その「あとがき」の一部を紹介したい。 私は空間と時間の変化による光を正確に描写しました印象派ルノワールの「セーヌの水浴」の青い影に魅かれまして、自然と共にある生活の場から受ける主観的で感覚的な印象をその儘詩にしたいと思うようになりました。そして「俳句は対象の真実を印象として表現する詩である」と考え、地球という星に暮らす全てのものは人間と同じように命ある存在と観て暗喩表現の中に活かし、各句がひとり歩きできるように言い聴かせて、咏って参りました。 句集名は「旹の跡」。この「旹」が「とき」という漢字であることをわたしはこの句集ではじめて知った。 「旹」と「時」は意味がちがうのだろうか。あえて著者が「旹」を用いた意味は、、、 調べてみると、「旹」は「時」の異体字であって、意味は基本的にはおなじらしい。 しかし、「旹」という字をあえて使ったことによって、「とき」が「時」というなじみの言葉から離れて、なにか別物のような顔をしてわれわれ読者のまえに立ち上がってくるのだ。そのことを著者の梶原さんは意図したのかもしれない。 著者は「あとがき」にこう書く。 句集名「旹の跡」ですが、特別なトキと日常のトキとを合わせた時間を時と申しますが、その痕跡のことです。 「特別なトキと日常のトキを合わせた時間」の「旹」なのである。では、特別な時とは、、、 思うに日常の時間のながれのなかに作者をとらえた一回性の時、それはつねにものの存在、あるいは実存としてのものといってもいいのかもしれないが、それをとおして作者に語りかけてくる「旹」なのである。 とりどりの時間が落ちてゐる椿 作者の自選句の一句であり、帯にも引用した一句である。この句なども、勝手な解釈をゆるしてもらうなら、落椿には一様に時がながれていくように思える。しかし、それぞれの落椿にはそれぞれ固有の時間があってそれを経てきたのである。その時間の堆積をわが身にひきうけながら椿は落ちる。椿一花一花にある固有の時間、それを「とりどりの時間」と表現し、椿がおちている平面的絵画的な風景に時の重さをくわえて一句にしたのだ。わたしはそれがおもしろいと思った。〈虫はみな自分の闇を鳴らしをり〉の句なども、視覚から聴覚へとそしてふたたび視覚へと時間と空間をとりこんで巧みに詠みながら時間を余韻として残す。意識的な一句だとおもった。ほかに〈初蚊打つ掌にぺちやんこのこゑの跡〉 落蝉の死がざわざわと掃かれをり これはわたしがおもしろいと思った一句である。「落蟬」が掃かれたのではなく、「落蟬の死」と記すことによって、肉体の物理的な感触から「死」という観念的な感触へと読者を導き、「死」という観念が箒で音をたてて掃かれているという、やや不安を呼び起こすような気配。「ざわざわ」が効果的である。日常の手触りが異なった表情をもって読者の心身に働きかけてくる。 おにぎりの転がりたがるあたたかさ これも好きな一句である。作者も自選句にあげておられる。擬人化をしている表現であるけれど、「おにぎり」ゆえによくわかる一句である。おにぎりが手より離れて転がっていってしまった。そんな景をこんな風に詠んだのかもしれない。おにぎりが「転がりたがる」というおにぎりの気持になっているのが長閑である。そんな風に心を自由に遊ばせるほどの「あたたかさ」なのだ。「おにぎり」「転がる」「あたたかさ」題材のみをみるとまるで日本の童話の世界であるかのよう。おにぎりの転がっていった先に冒険譚が待っているのが童話だ。しかし、「あたたかさ」という季語が待っているのが俳句である。下五の季語の置き方が巧みだと思った。擬人法を用いた句として〈トンネルの秋思吐きだす電車くる〉の句もおもしろい一句である。「秋思」がいい。ほかに〈一枚の秋思たたんでゐる手紙〉という秋思もある。 草の実をつけ少年のこゑ発す これはとても素直な一句。わたしは、この句を「草の実」をつけた大人が少年のような声を発したと読んだのだが、いやまてよ、これはもっと素直に少年が草の実をつけて、嬉しそうな声をあげたのか、と思いなおしたのだった。しかし、どうしても最初の印象にこだわってしまう。もういい大人となって、あるいは既に年老いた大人かもしれない。そんな人間が、草の実を身体につけたりしてかつての体験などをおもいだしながら、嬉しそうに声をだす。少年期に帰ったみたいに。この一句、「少年の」で切ってよめば、まさに少年そのものであり、「少年のこゑ」で切れば、わたしの解釈となる。う~ん、どっちだろう。作者の意図は?どっちでもご自由に、だったらいいな。 黄水仙さみしい奴が触れに来る わたしの好きな句。「さみしい奴」のこの「奴」という乱暴な言い方がいい。自分をふくめて淋しさのある人間への親しい感情が「奴」となった。黄水仙のめっぽうな明るさは、十分いやしてくれるのだろう。冬の季語である「水仙」は凛とした花であり、なかなか触れがたいものがある。花を汚してしまうようで、ちょっとすくんでしまう。春の黄水仙はそこへいくともっと親しさにあふれた表情をしている。冷たい指でふれてもあたたまるような色合いでもある。だからさみしさを心にかかえた人間は、その親しみやすさを発揮している黄水仙の磁場にすいよせられるのかもしれない。この句でわたしが好きなのは、「黄水仙」であるということ、親しみやすい黄水仙といえども、やはり水仙の端然さは失われず、触れてくる人をあたたかく赦してもその水仙の精神の骨組みの堅牢さはしっかとある花だということ。姿容をみればわかること。「さみしい奴」に触れられても、人を癒しながらも損なわれることのない姿勢のよろしさがある。「黄水仙」であるからこその一句だ。 校正スタッフのみおさんは、〈葱買うて点けて来し灯へ帰りゆく〉がとても好きです。「点けて来し灯」が何とも言えず淋しい感じがします」と。 ほかに、 重くなるリュックの中の終戦日 金魚である理由の泡を一つ吐く すりぬけし蜻蛉の乾き掌にのこる 玉葱ごと悔い真二つにしてしまふ 枯菊の括らるる影また濃くす 『旹の跡』は『風の国』(昭和六十一年刊)・『青天』(平成二十一年刊)に次ぐ第三句集です。(略) 句集名「旹の跡」ですが、特別なトキと日常のトキとを合わせた時間を時と申しますが、その痕跡のことです。また、「とりどりの時間が落ちてゐる椿」「蜥蜴ゐし時間の跡が消ゆる石」等の句のように、私の詩に登場する全てのものたちの光陰の模様という意を込めて「旹の跡」という名に致しました。 ふたたび「あとがき」から引用した。 本句集の装釘は和兎さん。 抽象的なタイトルだったので、どうデザインするか、難しかったのではないだろうか。 「青芝」創刊七〇周年を迎え、「青芝」と共に歩んだ私の約五〇年の俳句遍歴の晩年を纏める事になりました。(あとがき) 句集上梓後のお気持ちをうかがってみた。 ○句集を手にしたときの思い。 一冊の旹の手ざわりがした。 ○この句集にこめた思い 私の詩の足跡をくっきりと捉えたい。 ○今後のヴィジョン 今後も「俳句は対象の真実を印象として表現する詩である」という視線で、俳句をより深く愉しんでゆきたい。 梶原美邦氏。 実は、ふらんす堂と梶原主宰をはじめ俳誌「青芝」とのご縁はたいへん深い。 これまでふらんす堂は「青芝」の合同句集をおつくりしてきた。 『青芝十一面』は創刊700号記念として、 『青芝十二光』は創刊800号記念として。 そしてこの度の創刊70周年は、輝かしい歴史であると思う。 梶原美邦さま 俳誌「青芝」のみなさま 創刊70周年、 まことにおめでとうございます。 こころよりお祝いをもうしあげます。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 高階の窓百千の初日影 梶原美邦
by fragie777
| 2023-09-22 18:49
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||