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8月25日(金) 旧暦7月10日
先日「エルマーの冒険展」を見るため行った立川の美術館がある一角におかれていたオブジェ。 ここはおもしろい空間だった。 若者や若い家族連れが圧倒的多かった。 水の流れる階段で子どもを遊ばせている風景。 立川がこんな文化的な街であるとは、知らなかった。。。。 「来週の月曜までに目を通しておいてください」って、ドサッとゲラが置かれた。 第14回田中裕明賞の冊子である。 授賞式までには参加者の方たちに送らなくてはいけない。 かなり急を要する。 (この休日に目を通すしかないな……) 新刊紹介をしたい。 四六判フランス装帯有り 210頁 二句組。 仲寒蟬(なか・かんせん)さんの第3句集となる。仲寒蟬さんは、1996年「港」俳句会に入会、大牧広に師事。2005年第50回角川俳句賞受賞。「港」終刊後は、2020年「牧」「平(ふらっと)」の創刊代表となる。現在は、「牧」「平」代表。「群青」同人。現代俳句協会会員、俳人協会会員。第1句集『海市郵便』(2004年刊)で、山室静佐久文化賞受賞。第2句集『巨石文明』で、第65回芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞されている。第3句集となる本句集は、第2句集以後の10年間の作品を収録したものであり、櫂未知子さんが栞文を寄せている。 櫂未知子さんの栞文より抜粋して紹介したい。タイトルは「自然との、自分との対峙」。 仲寒蟬といえば、ヒューマニスティックな作品を発表する人としての印象が一部には強いか。時に国家の介入に怒り、また時に万年筆・ワイン・音楽、そして猫への偏愛を語り……。人はあれこれ彼の印象を語るが、私にとって寒蟬は、共に俳句を共通の言語として歩んできた闘士だ。ただ、このたびの『全山落葉』では、まずは自然の中にたたずむ寒蟬に注目した。 という書きだしで、たくさんの句をあげて、仲寒蟬の俳句に迫る。 そのうちのいくつかを挙げておく。 切株のまだ新しき寒施行 雁風呂や水平線が湯の高さ 詩集より句集明るし桐の花 骨なんともろき音立て若葉風 国家からすこし離れて葱坊主 前の二冊の句集に比べ、『全山落葉』はタイトルの成り立ちからして、かなり印象が異なる。現実から三センチ浮いていた『海市』、壮大なる『巨石』に対し、かつてたしかにあった鎌倉という時代に、著者は現代にあって思いを馳せる。それまでの作者が心を自由に遊ばせていた時代から、人生の晩秋へさしかかったという感慨が、この書名を無意識に選ばせたのではないかという気さえしてくる。そう、第一・第二句集の頃の、作品の上では遊び、実生活では変わらず医師としての仕事を全うしていた時期を過ぎ、第三句集では堂々たる自然との、自分との対峙を得た。 むささびや夜のどこかにひらく火山 仲寒蟬さんは、その略歴に2023年(今年)「佐久市立国保浅間総合病院退職」と記されているように今年退職をされたのである。まったく医業から撤退されたのではないだろうけど、医者としての激務からはある程度解放されたのかもしれない。櫂未知子さんが書かれているようにおのずと自然をみつめ、自己をみつめる時間がふえてきたのだろう。そんな一つのけじめとしての本句集の上梓になるのだろうか。「全山落葉」すなわち、俳人としてもリセットしての出発か。 陸にある船の下よりきりぎりす 櫂未知子さんが栞でもとりあげている一句である。眼前の景だけを詠んでいるようだが、どこかうら寂しいものが立ち上がってくる。「陸にある船」とは、たぶん魚をとる小さな漁船だろう。もうその役目をおえて海から引き上げられて陸上におかれているのだろう。浜ではなく陸と表記することによって海とは切り離された船であることがわかり、すでにあるいは船としての機能は果たせずにただそこにオブジェのように置かれている。しかも十分に働かされたあとのくたびれた様子もその船からみえてくる。そんな船の下には虫も棲もうというもの。船のまわりにはいつしか草も生え、そこにキリギリスの空気を裂くような鳴き声が聞こえてきたのである。きりぎりすの鳴き声は余韻もなくなかなか非情な趣がある。そんなキリギリスの鳴き声が作者を一艘の船の前で立ち止まらせたのだ。やはり淋しい。景は明確であるが余情のふかい一句だ。 蜜豆や大の男といふ括り これはわたしが立ち止まった一句である。本句集を読んでいくとわかるが、仲寒蟬さんには批評精神がある。現代への、世界への、社会への、状況への、それが俳句という形式の特性を巧みに使って詠まれている。この「蜜豆」の句なども、その一つとしてわたしのこころに響いたものだ、どう響いたかって、それは他者への批評というよりも自身のおかれたありようへの批評の目を思う。蜜豆という女性に人気があると思ってしまう食べ物、きっと仲さんはお好きなんだろう。そんな蜜豆をすきな男性である自分をちょっと恥じてもみる。しかし、なにゆえ恥じらうことがあろうぞ、「大の男が」なんていう意見は一種の性的な差別意識がそうさせるまことに大雑把な括りなんだ。そんな気持が頭をもたげる。しかし、可愛らしい蜜豆をまえにしていると、なんとも居心地が悪いような気持ちもしてくる。そんな複雑な感情を中七下五でまことに巧く言い止めていると思う。声高ではなく、微妙な心理もみえてきながらも、その底には世の通念への批評がちゃんとある。 祭いま角を海へと曲がりけり 作者も自選句に選んでいるが好きな一句である。いかにも夏祭らしいきもちのよい一句だ。巧みなのは、この「祭」の一語である。祭は言ってみれば抽象概念である。この角を曲がったのは、つまりは「神輿」だろう。しかし、「祭」と表記することによって、この季語が持っているすべてのものを総動員させながら、それは祭りについていく人々であったり、その町の景気であったり、そういうことをすべて読者に喚起させながら、一句にしている。この句はできるだけ多くを語らず、登場するのは、「祭」「角」「海」というかなりきわめてシンプルな語彙である。「角」はどこの角ともかかれておらず、海はいきなり出てくる。しかし、この一句を詠むとわたしたちには海の町の祭の風景があざやかに立ち上がってくる。神輿が、そしてそれをとりまく人々、ついていく人もいれば、見ている群衆、闊達な人々の動きやにぎわいとともに、やがて海へとひらけてゆく開放的な場面にみちびかれる。多くを省略しながらも、いやそれゆえにこそ具体的な景をみせてくれるのは、俳句ならではと思う一句だ。 朝顔育て宇宙飛行士志望 好きな句はたくさんあるが、この句もそう。自選句の一句でもある。この句はなんといったって「朝顔」でやられてしまう。この句が好きな人はみんなそうって思う。向日葵をそだてても、薔薇をそだてても、紫陽花をそだててもいいのだけれど、やはり朝顔がいい。どうしていいのか。育てているのは大人ではなく子どもなんだろう。宇宙飛行士に成りたいって言う夢をもっている。それだけでもいいじゃない。心と目ははるかな宇宙へと向いている。そういう少年少女が、朝顔をそだてているっていうのが一件脈絡がなくっていい。でもどうして朝顔がいいっておもうのだろう。日々咲いて日々しおれていく朝顔である。きっと毎日毎日、その儚さにも心を通わせながら育てているんだろう。朝顔のもつ清潔感や瑞々しさ、そんなのもいい。いま、歳時記で朝顔を調べたところろ、「太陽が昇りきる前にはしぼんでしまう。朝露よりはかない姿が日本人の美意識をそそり、古来、愛されてきた。七夕のころに咲くことから牽牛子(けんごし、牽牛花などの別名をもつ」とあった。そうか、牽牛花って考えると非常に納得がいくけど、そういうことで、朝顔って思うのは、理に落ちすぎてわたしは好きじゃないな。 鯛焼の二つはさびし三つ買ふ すきな句はほかにもっとあるのだけど、これは気になった一句であり、なんだろう、心惹かれる一句なのだ。「鯛焼」が季語である。俳人はこの季語を巧みに詠む。わたしがおもったのは、「一つはさびし」ではなくて「二つはさびし」と詠む作者のこころである。ちょっと不思議な感じがした。通俗的なことからいえば、「一人はさびしいけど二人だとさびしくない」なんてことを聞いたりもするが、作者は「二つはさびし」と思うのである。「二人」ではなくあくまで「鯛焼」に関わることであるから、短絡的な比較ではないのかもしれないが、二つという数をさびしいと思う作者のその心にわたしは引かれるのだ。そして「鯛焼」を三つ買う作者。あるいはいろんな理由付けができるかもしれないが、それをすることは野暮であり、結局解明はできないと思う。その言い表せない心情を一句にしたのだ、つまりは「一つはさびし二つ買ふ」では当たり前すぎて一句にならない。俳句でこそ、その微妙な心理状態を表現できるのかもしれない。 校正スタッフのみおさんは、「〈無花果や楼蘭国に湖のにほひ〉の句がとても好きです。まるで桜蘭に行ったことがあるかのような句ですね。と。 ほかに、 どこにでもゐる小林と野焼見に この町に暗室いくつつばくらめ 紙魚になりたし幾万の書をめぐり 成人の日のスリッパのすぐ脱げる 座敷遺影にしては嬉しさう 花を見ぬ一団のあり花の山 俳句を始めた時はまだ30歳台だったがいつのまにか定年退職の年となってしまった。この間、父が亡くなり俳句の師であった大牧広先生が亡くなった。二人の死の翌年から新型コロナ感染症によるパンデミックが世を覆い、自分も含めた社会的、文化的活動が停滞した。それでも立ち止まる訳にはいかず「牧」と「平」二つの俳誌を立ち上げて活動してきた。生きる支えとしての俳句の有難さ、人間社会に対する批判精神としての俳句の役割をあらためて実感する毎日であった。 ポスト・コロナがどういう時代になってゆくのか、俳句はどう変わってゆくのか、現時点ではよく分からない。ウクライナ侵攻という信じられない暴挙が国際社会の不確実性を浮き彫りにしたが、温暖化やエネルギー問題もそれと無関係ではない。いっそ全山落葉してゼロから再出発した方がいいのかもしれない。 「あとがき」を抜粋して紹介。「全山落葉」という句集名にも作者の批評精神はこめられている。 本句集の装釘は、君嶋真理子さん。 仲寒蟬さんは、フランス装をご希望された。 全体の色を「鴇色」でとも。 グラシン(薄紙)の風合いがいい。 フランス装とは、紙を贅沢につかった手製本仕上げである。 天アンカットで。 栞紐は白。 たんぽぽをたどればローマまで行ける とてもすきな一句だ。 「たんぽぽ」がいいなあ。 本当にローマまで行けそうな気がする。 上梓後のお気持ちをうかがった。 〇句集を手にとったときの感想 自分は「本」という媒体が好きで昔から「フランス装」に憧れており、いつかはフランス装の句集を作りたいと思っていた。その夢がかなって満足。 第一印象は「なんと瀟洒な!」、朱鷺色と指定した表紙の色は妻に言わせれば「品のいいピンク」、ちなみに彼女はピンクが大好きでこの表紙を気に入ったようだ。帯の茶色も朱鷺色とマッチしていて全体に美しい。 〇句集にこめた思い 第3句集、ここ10年間の詠草から選んだ。これまで8‐9年ごとに句集を編んできたのでちょうど頃合いかと。 この間師である大牧広先生が亡くなり、先生の選を経た句は半分くらい。その後同人誌「牧」と「平(ふらつと)」を立ち上げて代表となり自選する他なくなった。その意味では自分の選の良否を世に問う初めての句集と身の引き締まる思いもある。 句集の後半は新型コロナウイルス感染症によるパンデミック、父の死、ロシアによるウクライナ侵攻などがあり、それらの出来事が収録された俳句にはっきりと、或いはぼんやりと影を落としていることは間違いない。 新しい境地などというものは果たして表れているのかどうか。 〇句集上梓後のあらたなヴィジョン 第2句集『巨石文明』のあとがきに「まだ手付かずの沃野として医療に関する俳句という領域が残っている」と書いたが、結局第3句集でもそれは手付かずのままとなってしまった。勤務医としては定年を迎えたが医師という職業は一生続けるつもりなのでこれから先も医療に関する俳句を作る機会はあるだろう。敬愛する先達、相馬遷子のような医師俳句を詠めればいいのだが。 仲 寒蟬さん。 「相馬遷子のような医師俳句を」と書かれている仲寒蟬さんであるが、目下、百句シリーズの「相馬遷子の百句」の執筆をお願いしている。 すでに取り組んで下さっているご様子である。 わたしはその脱稿をとても楽しみにしている。 仲 寒蟬さま。 引きつづき、どうぞよろしくお願い申し上げます。 日本に醤油ありけり冷奴 仲 寒蟬 家の冷蔵庫に紫蘇と茗荷がはいっている。 今日は、お豆腐を買って帰ろう。 今朝の雲。 この大きな雲を目の前にしながら、ひたすら車をとばして出社。
by fragie777
| 2023-08-25 20:42
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