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8月9日(水) 涼風至(りょうふういたる) 長崎原爆忌 旧暦6月23日
「ねえ、昨日の夜中の雨すごくなかった?」ってスタッフたちに聞いたところ、 「えっ、気づきませんでした」って。 それぞれ遠くない地域に住んでいるのに、あの豪雨に気づかないなんて、わたしはしばらく眠れなかった。 しかし、5分もしないうちにピタリと止んだ。 ええっ、自分の耳を疑った。 いったい本当に雨は降ったのだろうか。。 翌朝起きてみたら、大地はおおいに濡れて庭の木々たちはうれしそうだった。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯有り 148頁 出来ることなら、広島忌に紹介したかった一冊である。 というのは、本著に書かれている杉山赤冨士(すぎやま・あかふじ)という俳人は、広島を抜きにしては語れない俳人である。明治37年(1903)年広島・安芸の宮島を望む地に生まれ、「昭和二十一年四月、杉山赤冨士(本名榮)は原爆投下の被爆地広島において、焦土広島の精神的復興を期して俳誌「廻廊」を創刊した。(はじめに)より」俳人である。 この杉山赤冨士という明治・大正・昭和を生きた俳人を知っている人はどのくらいるだろうか。 わたしは正直知らなかった。 共著のお一人であり、俳誌「廻廊」を赤冨士より継承主宰をされていた八染藍子さんが、そのご息女であることも本著をとおして知ったのだった。 本著の帯には、こうある。 「伝説の俳人・杉山赤冨士を繙く 総数七千句に及ぶ赤冨士全句集『権兵衛と黒い眷族』所収の句と娘であり、元「狩」同人・八染藍子の記憶を織り交ぜ、赤冨士の生涯に迫る。 本著の担当はPさんである。 以下はPさんのコメントである。 杉山赤冨士の句集『権兵衛と黒い眷族』に記されたエピソードだけでなく八染藍子先生から聞き取りを行って執筆された太田かほりさんの著者です。 八染先生と一緒に作り上げたという思いから共著にされました。 「杉山赤冨士」は、戦前戦後の昭和の俳句を広島で支えた俳人です。 俳句で広島の復興を願ったと言いかえてもいいかもしれません。 広島というその歴史的意味から目をそらさずに俳句を作り続けた赤冨士というひとを知り、学ぶ機会を得られたことを光栄に思っています。 本著は、基本的には太田かほりさんの執筆によるものである。俳誌「廻廊」に連載されていたものをかなりの大幅な書き直しをして一冊にまとめたものである。 本著は、序跋を抜きにして、五つの項目より成り立っている。「戦前篇(大正十年~昭和十六年)」「戦中篇(昭和十六年十二月八日~同二十年」「戦後篇(昭和二十一年から二十九年)」「続戦後篇(昭和三十年~同三十九年)」「戦後終息篇(昭和四十年~同五十年)」。 五章のうちから、とくに赤冨士の作品とその境涯にふれるものをわずかな抜粋となるが紹介しておきたい。 「戦前篇」より。 亀鳴くや宮殿(くでん)のうちに五百歳 (大正10年16歳) 高浜虚子の「ホトトギス」、星野立子の「玉藻」、改造社の「俳句研究」他、有力な俳誌に投句し、たちまち頭角を現したが、やがて、独立した。十一年間の遊学を経て二十九歳で広島に帰郷、四十歳で被爆、その直後の昭和二十一年に焦土広島の精神的復興を決意して俳句結社「廻廊」を創刊する。誌名にも、この作品にも、郷里宮島への熱い思いがある。(略) 大正十一年三月、絵描きになりたいといって意気揚々と上京した。芝区(現港区)高輪の父の知人佐藤吉三郎邸に寄寓するが、その経緯がいかにも赤冨士らしい。郷里の中学校の進級試験にわざと白紙を提出して落第、親は「勝手にせい」と折れた。学校帰りの路上で待ち構え、通りかかった佐藤家の家族に直談判し、寄宿を頼み込んだ。首尾よく運び、上京する。私立高輪中学校に編入学し、黒田清輝の洋画研究所の研究生となり、翌年、東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科に合格し、入学する。猪熊弦一郎、小磯良平ら学友に恵まれ、佐藤家を通して政財界人や正岡子規門の俳人など多くの知遇を得、特にジャーナリストであり正岡子規門下の五百木飄亭からは家族ぐるみで可愛がられた。そうした交わりに刺激され、『芭蕉七部集』『蕪村七部集』『子規全集』はじめ、創刊からの「ホトトギス」を読破する他、子規の俳句分類法とは別の分類で十二冊のノートを作っている。 赤富士は、最終的には皆吉爽雨を師としたが、そこに至るまで「ホトトギズ」や「玉藻」への投句をしている。そして俳人のみならず、芸大へ入学し、画業もよくした。その芸術的血筋は娘の八染藍子さん、そのご子息でこの度本著のブックデザインをされた杉山龍太さんに引き継がれている。 「戦中篇」より。 ライオンに吼えまくられて卒業す (昭和3年23歳) 昭和三年、東京美術学校五カ年全課程を終えて卒業する。とはいっても軍事教練の出席日数不足で三名の友人とともに、現役配属将校陸軍少将の訓練に神妙に出席し、油を搾られ、単位を検定された。美校は上野動物園に近く、教練場の真下のライオンの檻に向って「イチニノサン、ウオーツ」と声を揃えて吼えた。するとライオンも吼え返す。崖の上と下で獅子吼が起こり、入場者があきれ返って見物したという。赤冨士の風貌を、赤松蕙子は「金太郎さんが大人になったような」、孫杉山龍太は「まるで宗達の風神雷神が屏風から飛び出たような大迫力」と回想しているが、大男赤冨士の青春の一端がうかがえるエピソードである。 赤富士は大正十二年に関東大震災に遭っている。〈上野無事大震災の焼野来て〉という句を作っている。〈還俗のつまをくりやに粽解く〉という句もあって、仏門に入った女性徳子を、八年間の熱愛のすえ妻とし、結婚をする。第一子を失ったのち昭和九年第二子園絵(八染藍子)が誕生する。〈炎天へすべ無けれども愛を愛を〉昭和20年40歳のとき、広島に原爆投下、その広島の瓦礫のなかをさまよった赤冨士の一句だ。 「戦後篇」より 虹の虚子おもへば子規は僧の如 (昭和23年43歳) (略) この句は皆吉爽雨選「雪解」雑詠の巻頭を得た。虚子は当時すでに俳句界の第一人者であり、多くの門下を育成していた。赤冨士も、皆吉爽雨も、虚子に師事する一人であった。この句は、既に巨人と目されていた虚子に対しての正直な人間観察である。一席に推した爽雨の忖度のない選も見事である。だが、同門からの横波は避けられなかった。 虚子を師とあおいだ赤冨士であったが、虚子一門との齟齬もあり批判的に周囲からはみられていたようだ。〈とんがれるよこがほに痰一斗の忌〉「松山での子規五十年祭に虚子一門が集合したが、「つむじまがりのわれ、海をわたればすぐそこなのに、おがみにはゆかず」として、穏やかではない気持を吐露している」とある。 「戦後収束篇」のなかで、「原爆は俳句になりませぬ」という虚子の言葉が語られているが、その俳句にならない原爆を赤冨士は短歌形式にて原爆記録五十首「忌はしき虹」と題して短歌集『敝衣の鶴』に収録している。その短歌より数首を紹介しておきたい。 立ちくらむ一閃(せん)ときをうつさずに玻璃戸(はりど)をやぶる不意の爆響 黒き襤褸(ぼろ)まとへるものらつゞきくるよるべなきらもかにかく步く 受爆の眼吾にみひらきて愬(うつた)うる土管のなかの学徒濵中 手のほねを切りとりしかば竹のほねを詰めて縫ひあげ棺に納めぬ 赤冨士は、晩年はさまざまな病気との闘病の日々となる。」昭和四十八年一月胃潰瘍のため手術。昭和四十九年肝血管腫症、胆嚢篇と膵臓炎を併発し入院、昭和五十年、胆嚢炎、膵臓炎、前立線肥大、膀胱尿道炎で三度目の入院、「六十九歳で第一回目の入院手術をして以来、毎年のように繰返し、昭和五十二年には胃癌の再発により五度目の入院、末期の癌性腹膜炎と診断され、人工肛門の手術を決断する」とあり病と闘う日であった。 古暦わが終焉を迎ふるや (昭和52年72歳 「廻廊」赤冨士追悼号より) 十月二十五日、娘園繪が枕元で書き取った生涯最後の句である。激しい腹痛、高熱、幻覚、不眠に苛まれていた。もはや、わずかな疑いも、希望も、一切とどめてはおらず、深い詠嘆の響きがある。(略) 昭和五十二年十一月十二日、七十三回目の誕辰の日に命が尽きた。この日は朝から誕生日祝いの品々が届き、真紅の薔薇の花束も届いた。臨終を見守るため門弟が続々と詰めかけ、主治医に許され、深夜の病室には入れる限りの人が詰め、廊下にも溢れた。その終焉の様子は、一幅の涅槃図となって周囲の心に残っただろう。諡は葛飾北斎に因んで自ら用意した「夜来院釋凱風」とされた。 執筆者である太田かほり(おおた・かほり)さんは、1948年香川県生まれの俳人であり、「郭公」「航」「むさし野」「浮野」に所属。 赤冨士のご息女である八染藍子(やそめ・あいこ)さんは、1934年広島県生まれ、「狩」(鷹羽狩行主宰)の主要同人であり、「廻廊」を2021年の終刊まで主宰継承をされた。現在もお元気でおられる。 筆者は「廻廊」終刊時に「杉山赤冨士句集『権兵衞と黒い眷族』を読む」を連載していた縁により、その続編として本書をまとめた。執筆に当たっては、八染藍子の書籍、書簡、電話でのインタビュー等に負うところが極めて大きく、共著とした。また、孫杉山龍太の随想「夜来山荘」や多くの資料からもエピソードを拝借した。(略) なお、「廻廊」の表紙は、創刊時の赤冨士の手になる題字から藍子の得意とした型絵文字に替り、終刊までの四十数年間はグラフィックデザイナーの龍太が担当してきた。三代に亘って美術が伝承された稀有なケースである。 太田かほりさんの「あとがき」を抜粋して紹介した。 装釘は、赤冨士のお孫さんの杉山龍太さん。 龍太は装丁について「祖父は殊のほか宮島を愛しておりました。さざ波が銀鱗のように輝く、静かな瀬戸内海に浮かぶ宮島を歌舞伎や袈裟にも使われる鱗文様で表してみました。敬虔な浄土宗安芸門徒であった祖父を、宮島をあしらった袈裟で包み、孫からの供養の真似事といたします」と説明されている。(あとがき)より。 眠る山に吾を焼くけぶりたつなどよし 赤冨士は昭和二十年に詠んで奉公袋に入れていた辞世の句「眠る山に吾を焼くけぶりたつなどよし」を句集の最後に再び「辞世」として書き入れている。(あとがき) 上梓後の思いを執筆者の太田かほりさんに伺った。 当初はふらんす堂の「百句シリーズ」の体裁に倣って、新書版の簡易なもの、どこからでも読める手頃なもの、を想定していました。 編集者の助言で簡易さ、手頃さは果たすことができましたが、初校の段階で「伝記風」を加えたことにより、加筆が多くなり、ここでも多くの助言をいただきました。 おかげ様により「伝説の俳人」であり「在野の俳人」であり「無名の俳人」である赤冨士に一筋の光を当てることができました。 俳句文化は「無数の杉山赤冨士」によって今日の隆盛に至っていると思わずにいられません。 埋もれた俳人発掘の例になればうれしいことです。 赤冨士を特徴づけるものに「ヒロシマ」がありますが、深く思索を促されました。 発行日を8月6日としていただいたのも編集者のお計らいでした。 この提案には、思わず感情が込み上げました。 装丁は、赤冨士の精神風土の一面を表す安藝の宮島をイメージしたものです。 広島に大きな足跡を刻んだ赤冨士に改めて敬意を表します。 担当のPさんをはじめ校正スタッフさんたちも頑張って取り組んだ一冊となった。 明治、大正、昭和の激動の時代を生きた俳人・杉山赤冨士を知る一冊になれば版元としてもこれほどうれしいことはない。 今日は長崎原爆忌。 はるかむかし長崎へ家族旅行をしたときに求めた絵はがき。 それを何枚か一緒にして額装にした。 これはその額装にした一部。
by fragie777
| 2023-08-09 19:20
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