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7月28日(金) 土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし) 旧暦6月11日
仙川に今年生まれたカルガモの子どもたち。 こちらば別の一団。 子どもたちはもうすこし大きい。 ちびっ子は母親との距離がちかいが、おおきくなるにつれてその距離がひろがる。 そんな様子をうえから眺めている翡翠。 この日、ハクセキレイもいた。 ひさしぶりである。 セキレイの姿をながめるのは。 「ふらんす堂通信177号」が出来上がってくる。 特集記事が多かったせいか、いつもより厚目である。 発送は、8月1日、お手元にとどくのは来週半ば以降となると思う。 もう少しお待ちいただきたい。 今日の毎日新聞の坪内稔典さんによる季語刻々は中間一司句集『すばる』より。 妻留守の昼はカレーに缶ビール 中間一司 「カレーに缶ビール」という素朴さを楽しんでいるのだろう。妻がいたらこうはいかず、野菜サラダなどがきっとつく。」という坪内さんのコメントがおもしろい。わたしの場合、野菜サラダはきっとつけない。どうしてかって、だって面倒じゃない。また、カレーに缶ビールは、御法度である、私の場合。カレーも缶ビールもカロリーが高い。だから美味そうであっても断念。 日本文学者の井上泰至さんが、高山れおな著『尾崎紅葉の百句』について、まもなく刊行になる井上泰至編『混沌と革新の明治文化 文学・美術における新旧対立とその連続性』で言及しておられる。その部分を送ってくださった。 本著の序文にあたるもので、「序にかえて――高山れおな氏『尾崎紅葉の百句』に思う」と題し、明治文化における新旧の問題を扱うにあたってその解明の大きなヒントの糸口になったものとして論じておられるのである。 『尾崎紅葉の百句』より句をとりあげ、高山さんの鑑賞にふれながら、子規の句や虚子の句をその対比としてとりあげつつ、紅葉の句の俳句とはいかなるものであったかをそのあたらしさをふくめてさぐっていこうとしている。詳しくはここでは紹介をしないが、本著への洞察をふかめたすぐれた書評となっている。 すこし抜粋しておきたい。(ちょっと乱暴な抜粋である) 高山氏は紅葉俳句の本質を、単なる江戸趣味や、「小説家」西鶴に憧れたことを理由に、談林派の系譜といったところへ落とし込んで、それでよしとする見方にはくみしない。山下一海氏の評価を引いて、紅葉は「伝統的な俳諧味の強い傾向」、すなわち「俳力」を「再活用」しようとした。「個人の主体的な強い表出力」を、江戸俳諧の横紙破りな表出法によって、自らの俳句に充満させることにより、「やがて新しい俳魂が宿る」というのが、紅葉の目指すところであったのだろう、というわけである。 紅葉は徹底した「主観」の俳人であり、紅葉の俳壇認識としては混乱期の明治俳句界において、「破格無法」を気にすることなく存分に「新意」を出そうとすればいい(「革新の句作」『太陽』明治三十九年十月)と考えていた。紅葉は、カオスの時代を「活力」と積極的にとらえて、果敢に実験を行った、というのである。 他方、「新派」のライバル子規の主張は、「写生」によって伝統的な季語の本意から成り代わっていく、今日風に言えば一種の「キャンセル・カルチャー」なのであり、「旧派」という烙印とその一派への攻撃は、紅葉より峻厳なものとなった。紅葉の方はと言えば、「カオス」は「カオス」として、使えるものは江戸俳諧自体の「カオス」から学べばいいという立場なので、子規のように連句も完全に否定はしないし、「句合」や「句兄弟」といった江戸俳諧の詠法もそのまま使っている。 (略) やがて明治四十年代の文学の一般化・大衆化は、子規の流れの方に軍配を上げることになっていくのも、確認できる。ただし、演劇のような、「劇場」という都市の装置を介在するジャンルは、紅葉の系譜が重要な意味を持って、新派劇の定着へとつながっていくし、紅葉の流れを汲む泉鏡花とタッグを組んだ鏑木清方のような「新錦絵」とでもいうべき展開とのつながりも見えてくる。 井上泰至さんのこの「序にかえて」は、『尾崎紅葉の百句』を手がかりに俳人・尾崎紅葉をさらに知りたいという人には、おすすめの一文である。また、この一文を読みながら俳人・尾崎紅葉を知ることは、その対極にある正岡子規という俳人のありようも更新されるのだとわたしは思ったのだ。また、俳句をという文芸をとおして明治という時代がみえてくることも興味深い。 家に帰るとガラスの虎が暑いと吠えている。
by fragie777
| 2023-07-28 19:26
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