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7月26日(水) 旧暦6月9日
鬼百合。 今朝は6時10分に起きて、庭の植木に水をやる。 「水はやりすぎるということはない」とう造園家のIさんのことばを思いだしながら、できるだけたっぷりとやる。 いつもなら蚊がいっせいに襲ってくるのであるが、この猛暑で蚊の姿もほとんどない。 夕立でもあればいいのだが、ほとんど夕立もなく雨も降らない。 そしてこの日中の暑さである。 庭の苔は姿をけしつつある。 およそ一時間かけて水やりをおえる。 狭い庭なのだが、ところ狭しと木が植えられており、その木々たちに応えようとすると時間がかかってしまう。 ゆえに、夕立を日々待ち望んでいるyamaokaである。 今日の日付の長谷川櫂さんによる「四季」は、高山れおな著『尾崎紅葉の百句』より。 鮎看(み)るべく流れ聞くべく谿の石 尾崎紅葉 「明治の俳句といえば正岡子規がまず挙がるが、『金色夜叉』を書いた紅葉は俳句のもう一つの可能性だった」と長谷川さん。まさにその通りで、その認識は、高山れおなさんが本著をあらわすことによって、俳句の世界に植えつけられたのだと思う。子規と拮抗する俳人・紅葉、そんな情熱をもって高山さんに書き下ろされた一冊である。 悲しいお知らせがあります。 2018年9月に第1句集『東京(バビロン)の地下鉄』を上梓された白戸麻奈(しらと・まな)さんが、この24日に急逝された。 熱中症によるという。 享年54歳 ご友人の方からお知らせをいただいて、わたしたちもただ驚くばかりである。 「ふらんす堂友の会」にも入っておられ、ときどきお電話で本の注文をいただいたりしていた。 一匹のネズミを肩に雪女 白戸麻奈 句集『東京(バビロン)の地下鉄』には、ネズミがたくさん登場する。三章のうち、一章はすべてネズミの句である。 家には、体長一・五メートルで翼のある虹色のネズミがいます。 噓です。冗談です。ただ、この広い大きな宇宙には、そうした生き物が存在するかもしれません。 私は動物番組が大好きなのですが、それにしても、ネズミが登場するとなると獲物とし て食べられるシーンばかり。とても悲しい。 ネズミは可愛いんです。 「あとがき」である。 虹色の翼をもったネズミに出会うことを夢見つつ、ネズミをこよなく愛した俳人である。 本句集には、山崎十生さんが序文を寄せられている。 この異才をはなつ俳人への深い理解を示すものだ。 無謀な挑戦は避けるべきであるが、白戸麻奈はアナーキーなまでに果敢に挑み続けている。平面的な常識は、俳句に於いては必要ない。必要なのは、究極の「詩」を求める精神である。 ネズミの目犬のふぐりと空映す 風車じっと見つめているネズミ 名月を見るもネズミは命がけ どの「ネズミ」も作者の分身とか化身であるかのようである。「ネズミ」に固執することで自らを慰撫している。それだからこそ、「ネズミ」の語から離れられないのである。作者自身が、「ネズミ」に縋って生きて行くしかない環境を、どう処したらよいのか迷うところである。しかし、貪欲なまでに自己に、詩に執着することで、宇宙の中の小さな一生命体である自己の鎮魂の叫びを聞くしかないであろう。オンリーワンの詩を、世界で一番短い詩形式である俳句で表現することに白戸麻奈は身を削っているのである。俳句は、たった十七音であるけれども、言語宇宙を構築するには、これ以上にないエネルギーを内蔵している形式である。言葉が長くなれば長くなるほど、反比例して減ってゆくのである。そういう矛盾が、俳句の核であり、諧謔を生み出すのに適しているのである。 白戸麻奈にとって、俳句は決して身から離せない詩形である。そのことを充分に理解しているからこそ、白戸麻奈は、命あるもの全てに愛情を注ぎ、真面目に俳句と向き合っているのである。こういう純な心を失わない人間は、今日に於いては希少である。 本句集はこのブログでも紹介申しあげた。 よろしければアクセスして、白戸麻奈さんを偲んでいただきたい。 白戸麻奈さんのご冥福をこころよりお祈りもうしあげます。 馬酔木の花生きるに重い五臓六腑 白戸麻奈 かの世にて、虹色の翼をもったネズミと出会えましたか。 白戸さん。
by fragie777
| 2023-07-26 18:20
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Comments(2)
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