カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
7月24日(月) 桐始結花(きりはじめてはなむすぶ) 地蔵盆 旧暦6月7日
朝、階段のところにいたカミキリムシ。 全長は15ミリくらいの小ささ。 美しい模様をしている。 じいっとして動かない。 お昼になっても動かない。 スタッフのPさん曰く「熱中症かもしれない」ということで、Pさんがペットボトルの蓋に水をみたして、そっと口のあたりにかけたところ、必死になって水を集めるようにして飲んだ。 何度か水を捕捉したら、ものすごく元気になって、急に動きだした様子。 「やはり熱中症だった」とPさん。 夕方ちかくに階段をおりていくと、すでに姿は見当たらなかった。 多分元気に飛び立ったのだろう。。 良かった。 新聞記事を紹介したい。 16日付けの北海道新聞の田中綾さんによる「書棚から歌を」に、梶原さい子著『落合直文の百首』が紹介されている。抜粋して紹介したい。 今朝のみはしづかにねぶれ君のため米もとぐべし水もくむべし 落合直文 〈緋威(ひおどし〉の鎧(よろい)をつけて太刀はきてみばやとぞ思ふ山桜花〉が代表歌であり、「緋威の直文」と称された作者。武士の時代から明治期に移り、その歌風は、滋味深い生活感あふれるものに変わっていった。 落合直文は、江戸時代末期、現在の宮城県気仙沼市の武家に生まれた。仙台、伊勢、東京で国文学や神道を学び、旧制第一高等中学などで教職についた。(略) 和歌革新運動の推進者であったが、自身の歌は日常的な材料が多かった。たとえば、掲出歌の「君」は妻のことだろう。体調を崩した妻に、今朝は料理も水くみも心配いらないから、ゆっくり休んでいなさい(ねぶれ=眠れ)といたわっている。子どもたちの成長を歌ったものも少なくない。 (略)「萩」を好んだ落合は、1903年(明治36年)、42歳で病没。「萩之家遺稿」と、遺稿にも「萩」の名が付けられていた。 今日はお客さまがおひとりみえる。 藤田るりこさん。 第1句集上梓のご予定があり、担当のPさんと打ち合わせをするためのご来社である。 藤田るりこさんは、俳誌「秋麗」の同人であり、主宰の藤田直子さんは、お母さまである。 2001年に「未来図」(鍵和田秞子主宰)に拠って、俳句をつくりはじめる。 「わかい人同士で句会をやるから参加しません」というFAX句会のお誘いがあって、それが句作のきっかけとなった。 しかし、もとより俳句的環境のなかにいらしたのだ。 「母が俳句をつくるとその都度、これどう?って見せるんです。それは日常的なことでした。そして、俳句をつくる母をいつも見てきました。まさに母の俳人としての成長の姿をみてきたと言ってもいいと思います」とるりこさん。 「未来図」には、始めの二回ほどは、名前をかえて藤田直子の娘であることがわからないように投句をした。 しかし、すぐに鍵和田秞子主宰に見破られたのだそうである。 「ある時、鍵和田先生に言われたのです。『あなたは、お母さんとちがうわね』って。そういう認識をもらったことが、いまの自分をある意味方向付けたかもしれません」 藤田るりこさん。 書物が大好きで、「自分の本をつくるということが、こんなに楽しいことだとはおもいませんでした」と目を輝かせた。 たくさんの本を御覧になって、造本を決められたのだった。 わたしのパソコンのモニターにいつも載っている翡翠。 ガチャでスタッフがとってくれたもの。
by fragie777
| 2023-07-24 18:52
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||